先般、英国人Joe Picarella氏より、朝日新聞社が1937年(昭和12 年)4月に敢行した神風号による亜欧連絡飛行に際し、本機に搭載された無線機材についての問い合わせを、氏の所蔵する写真資料と併せ受けた。 本件につき調査を行うも、有効な情報は全く入手出来ず当惑したが、幸いにも日本無線株式会社(JRC)の社史「五十五年の歩み」の中に「昭和12年(1937)4月、朝日新聞社訪欧機神風号の無線機納入」との記述を発見した。早速JRCへ問い合わせを行った処、先日有難くも総務部社史編纂室より調査結果の報告を頂いた。 神風号の搭載無線機については、興味を持たれる方も多いと思われるので、以下にその大要を掲示した。「航空機用無線機につきましては、当社『五十五年の歩み』にも記述されています通り、昭和9年から10年にかけて、朝日新聞社の飛行機6機に搭載されたことが記録に残っています。搭載されていた無線機は、我が国初の水晶制御式無線機「NA1号型無線電信機」と称していました。周波数は5660、6590Kc電波形式はA1、A2およびA3となっていました。但し、A3は初号機のMonospar号以外には許可されていなかった、と記されています。次いて、昭和11年に大形高速輸送機「鵬号」に水晶制御式無線機を搭載しました。昭和12年2月の記録として、神風号に搭載した無線機は上記6機の無線機に耐熱、耐寒の処置を施したものを使用し、東京―ロンドン間の往復飛行において無故障で記録を完成した、とあります。このときの無線機の送信出力は、A1-20W、A2、A3-10Wと記されています。無線機の1号機から6機、鵬号については、記録がありましたが、神風号に搭載された無線機についての記録は見つかりませんでした。しかし、無線機はNA1型無線電信電話機であったと思われますので、基本的にはこれらの無線機と同じ仕様と考えられます。」 上記により、神風号の無線機は、日本無線が製造し、従来朝日新聞社所有の航空機に搭載されていたNA1型に、耐熱、耐寒の処置を施した特別仕様であったことが判明した。また、併せ添付された資料他を勘案すると、NA1型無線機は大凡以下の様な仕様であったと考えられる。NA1型無線機仕様送信機通信距離: 1,500Km電波形式: A1(電信)、A2(変調電信)、A3(電話)送信周波数: 短波5,000-10,000KHz(常用5,660KHz、6,590KHz)、長波(常用333KHz)送信出力: 電信20W、変調電信・電話10W構成: 主発振・電力増幅方式、発振UY-47、電力増幅UX-202A、音声増幅・低周波発振UX-12、陽極変調UX-202A受信機受信周波数: 短波2,500-20,000KHz、長波(機能不明)構成: ストレート方式、高周波増幅RCA-78、検波(再生機能付と推測)UY-37、低周波増幅UY-37・UY-38空中線装置: 送受信機兼用、機体装備固定式空中線・垂下式空中線電源: 送受信機各回転式直流変圧器神風号の亜欧連絡飛行 朝日新聞社は販路拡大の宣伝を目的として、1937年(昭和12年)5月12日にロンドンで行われるジョージ6世の戴冠式奉祝の名のもとに、亜欧連絡飛行を計画した。当時、日本とヨーロッパを結ぶ定期航空路はなく、また、パリ-東京間を100時間で飛行しようとするフランス人飛行家達の試みも、連続して失敗していた。 朝日新聞社は本亜欧連絡飛行のため、陸軍より三菱重工が開発した試作司令部偵察機(キ-15)2号機の払い下げを受け、乗員には軍承諾の元、朝日新聞航空部の飯沼正明26才(操縦担当)と塚越賢爾38才(機関・通信・航法担当)を選任し、機体の愛称は公募により「神風」と決定した。 神風号は悪天候により最初の出発を台湾への途上で中断したが、1937年4月6日の早朝に立川飛行場を再出発し、その後、台北、ハノイ、ビエンチャン、カルカッタ、カラチ、バスラ、バクダッド、アテネ、ローマ、パリを経由し、現地時間の4月9日午後、ロンドンのクロイドン空港に着陸した。立川飛行場よりロンドン迄の所要時間は94時間17分で、給油・仮眠をのぞく実飛行時間は、51時間19分であった。 亜欧連絡飛行完結後、神風号は4月12日に大西洋航路で到着する秩父宮夫妻を空から出迎え、また、ヨーロッパ各地への親善訪問を行った後、4月14日にロンドンを出発し、戴冠式の記録映画を携え、21日に大阪経由で羽田空港に帰着した。その後の両飛行士 神風号の亜欧連絡飛行の成功により一躍国民的スターとなった両飛行士であったが、その最期は共に悲劇的なものであった。 飯沼飛行士は太平洋戦争が勃発して数日後の1941年(昭和16年)12月11日、軍務としてハノイ、プノンペン間の連絡飛行を終了した後、プノンペン飛行場で九八式直協偵察機のプロペラに巻き込まれ死亡した。 一方、塚越飛行士は1943年(昭和18年) 7月7日、日独軍事連絡航空路の開拓を目的とした長距離航空機、A26型(キ-77)に搭乗したが、本機はシンガポールからベルリンへの中継点、クリミア半島のザラブスに向かう途上、インド洋で消息を絶った。この飛行は東条陸軍大臣の肝入で実施されたが、表向きは民間主体の飛行で、塚越飛行士は朝日新聞社航空部員の資格で搭乗していた。写真補足 掲示@AはJoe Picarella氏より提供を受けた写真であるが、これは機体の構造から神風号(陸軍試作司令部偵察機キ-15)の無線・航法席を写した物と考えらる。写真@の矢印が機首方向で、前面に装置された機材は構造から二周波数対応の送信機と考えられる。また、写真Aは@の背後で、機材の中央にバーニャダイアルが確認出来る事から、受信機と考えられる。 写真Bはロンドン・クロイドン空港に着陸した神風号である。航空無線に関わる若干の補足航空無線業務の開始 我が国の航空無線は1929年(昭和4年)4月、東京-大阪間に民間航空の旅客用定期航空路が開設された事により始まった。航空路開設の決定と共に、逓信省は東京、大阪の両飛行場に中波の航空無線局(東京JYX・大阪JEA)を開設し、これら無線局は相互に航空機の発着、通過及び気象情報等、航空機の安全に関する通報の交換を行い、航空業務の円滑な推進を補助する体制を整えた。 之に続き、5月21日に箱根(JXH)、7月6日に福岡(JXY)、9月16日には亀山(JXK)に航空無線局が開設し、その運用が順次始まった。特に、当時の航空機にとっては難所の箱根、鈴鹿山脈の亀山に設置された無線局は、気象情報の充足を主目的とし、また、通達距離の短い長波通信を補助し、空電他により通信が困難な場合の中継業務を担当した。1930年(昭和5年)になると朝鮮航路上の重要地点である対馬の厳原(JXI)と、上海航路である五島列島の富江(JXY)に航空無線局が開設し、我が国に於ける航空無線の基本体系が確立することになった。中波航空無線局の設備 当時東京中央電信局・無線電信局に設置された通信設備は以下のような物で、大阪中央電信局・無線電信局の設備も東京に準拠した構成であった。当初大阪無線電信局の送信所は喜連に、受信所は大阪中央電信局・無線電信局庁舎内であったが、1937年(昭和12年)に送信所は深井に、受信所は明石に移行した。 掲示の図-1は開設当初の東京中央電信局・無線電信局の通信構成であるが、本式は中央で飛行場管制所、送信所、受信所を統括するため、中央集中方式と呼ばれた。【東京無線電信局】通信方式: 検見川送信所、岩槻受信所を使用し、東京中央電信局より有線で制御、送受信を行う中央集中方式送信設備: 出力3KW送信機二台呼出符号: JYX運用周波数: A1(電信)-200KHz(臨時気象報・警報・呼出)、205KHz(定時気象放送)、A2(変調電信)-333KHz空中線: 傾斜式(90m高)受信装置: オートダイン式受信機2台、スーパーへテロダイン式受信機2台空中線: 傾斜型【大阪無線電信局】呼出符号: JEA運用周波数: A1(電信)-200KHz(臨時気象報・警報・呼出)、240KHz(定時気象放送)、A2(変調電信)-333KHz通信経路 当初に於ける東京-大阪間の航空通信は以下のような経路で運用された(図-1参照)。 なお、1939年(昭和14年)6月1日に立川飛行場が羽田に移転し、羽田無線電信局が開局したため、検見川送信所での航空無線業務は終了した。【下り大阪】 東京飛行場(立川)→[有線通信路]→東京中央電信局(通信中継)→東京無線電信局・検見川送信所→【無線通信区間】→大阪無線電信局・局内受信所→[有線通信路]→大阪中央電信局(通信中継)→[有線通信路]→大阪飛行場(船町)【上り東京】 大阪飛行場(船町)→[有線通信路]→大阪中央電信局(通信中継)→大阪無線電信局・喜連送信所→【無線通信区間】→東京無線電信局・岩槻受信所(埼玉県)→[有線通信路]→東京中央電信局(通信中継)→[有線通信路]→東京飛行場(立川)機上無線局 航空無線業務が開始された当初、国内の民間航空機には無線装置は搭載されていなかった。しかし、福岡-蔚山(うるさん)航路にフォッカー3Mが就航すると、本機は洋上飛行と定員の関係から、航空法により無線装置を装備する必要があった。このため、マルコニー社製の中波送受信機を搭載し、飛行中に福岡及び蔚山無線局と333KHzで連絡通信を行った。以降、暫時航空機への機上無線局の導入が進んだ。短波帯への移行 1930年代になると、無線技術の急速な発展に伴い、航空無線も小電力で遠達が可能な短波帯への移行が要望される様になった。特に垂下式空中線に替わり、機体装備の固定空中線の使用が可能となる機上無線局では、1935年(昭和10年)頃より短波帯への移行が進んだ。一方、地上設備の急速な変更は困難であり、1935年から1939年(14年)の間は、地上局は中波送信を行い、機上局は短波で送信を行った。しかし、間もなくして地上局の改修が完了し、航空無線は完全に短波帯に移行した。通信構成の変更 従来航空無線局の運用は主に地上局相互の連絡を目的としており、これら陸上局の通信構成は前述の如く中央集中方式であった。しかし、この方式は飛行場より発報される通報を、中央電信局で中継するため時間が掛かり、機上無線局の導入が進むと、高速で飛行する航空機との通信には不都合となった。このため、短波帯への運用周波数の移行に併せ、通信方式も図-2の様に改められた。 本式は中央通信方式と、二重通信方式を統合した構成で、送信所は従来と同様に飛行場より遠隔な場所に配置されたが、通信所は飛行場内に設置された。また、地上局間に於ける通信の受信は、送信所と同様に遠隔の受信所を使用するが、航空機よりの発報は、通信所内に設置された設備により直接受信する方式となった。業務内容と航空管制圏 航空無線業務の通信内容は多岐に渡る。その内容は飛行機の出発報、到着報、出発待合わせ報、引き返し報、欠航報、通過報、今後使用する飛行機の通報等々で、定期航空及び、その他の飛行機に関する一切の通報であり、また、併せ一日に六、七回の相互による気象通報・警報、他の飛行区間の運航状況等が連絡された。 航空無線業務は航空機の出発飛行場の管制室より、各航路に設置された航空無線局を介し行われた。しかし、これは植民地、統治地域を含む国内航路に於ける通信構成である。このため、神風号やニッポン号等国外へ飛行する場合は、我が国の管制範囲外では国際通信を行う事になる。この場合は目的国の航空管制局と直接通信を行い、気象情報の入手、要地通過・推測位置の連絡、到着時間の連絡、誘導の依頼等を行った。