先般、(株)KODENホールディングスの前代表取締役社長である伊藤良昌殿より、海軍技術研究所の研究風景と思われる写真他多数を頂いた。光電社は1947年(昭和22年)に元海軍技術研究所・電波研究部の伊藤庸二技術大佐を中心に創設された電子機器メーカーで、伊藤良昌殿は伊藤元技術大佐のご次男である。 伊藤元技術大佐はマグネトロンの権威であり、帝国海軍に於けるマイクロ波レーダーの開発に主導的役割を果たし、また、大戦末期には「Z研究」、所謂怪力光線の開発を推進した。 さて、頂いた写真の中に、日露戦役に於いて帝国海軍が装備した36式無線電信機の構成機材と思われる写真が一枚含まれていた。36式無線電信機は1901年(明治34年)に開発された34式無線電信機の改良型で、両機の構成は共に送信機が火花式、受信機はコヒーラ検波方式であり、受信信号の出力は符号印字式である。 当該写真は海軍館(注-1)の展示物を映したもので、内容は火花式送信機を構成する高圧発生用感応コイル、本コイルの一次側を連続して瞬断させ二次側に高圧を発生させる水銀開閉器及び、特殊な構造の電鍵である。 日本海海戦を勝利に導いた36式無線電信機については、多くの記述や、幾台かの複製が存在するが、その正確な構造については必ずしも判然としない。しかし、今般頂いた写真に映る機材は撮影場所からして、現物の36式無線電信機を構成した装置と考えられ、当館にとっては誠に貴重な収蔵資料となった。写真補足 展示物中央が高圧発生用の感応コイルで、一次側コイルに加圧される直流を水銀開閉器により連続瞬断する事によりパルス化(交流化)し、二次側に一万V近い高圧を発生させる。基台の前面に配置された二本の棒状スタンドの上部に装置されたのが火花放電器(スパークギャップ)で、コイル二次側に発生する高圧を放電させ、B電波を発生させる。左側の棒上部には空中線の接続位置を示す「空」が、右側の棒には地線の接続位置を示す「地」の文字が表記されている。 感応コイルの左側が水銀開閉器で、左の電動モーターによりガラス瓶内下部に装置された小型ポンプを回転させ、瓶の底に溜められた水銀を吸い上げ、上部で放射する。放射位置には一部がカットされた回転する金属製の筒が装置されており、誘導コイルの一次側電路開閉スイッチを構成する。この筒はポンプと同軸で回転し、放出された水銀が外周に触れると回路は導通するが、筒の一部はカットされており、結果、瞬時の開閉が連続する。 感応コイルの前に置かれたのが電鍵で、左斜め上に伸びたパイプは電鍵のカウンターウエイトであり、火花による接点の焼付を防ぐ構成と考えられる。この電鍵と、36式無線電信機の電路結線図(注-2)に描かれた電鍵の構造は一致している。 ところで、この写真は若干不自然で、電鍵は展示ケースの前面ガラスを開けた、レールの上に載せられている。察するに、本来電鍵はコイルの右側に配置されていたが、撮影の都合で中央に移したか、もしくは、別所より電鍵を持ち込み、展示物と併せ撮影を行ったものと考えられる。36式無線電信機(簡単火花式送信機)の開発 1897年(明治30年)、イタリア人のマルコニー(Guglielmo Marconi)は自らが開発した火花式無線装置によりイギリスで一連の公開無線通信実験を行い、無線通信が実用の技術であることを示し、世界の海軍、海事関係者の注目を集めた。帝国海軍も早速、当時イギリスで建造中の軍艦敷島に無線電信機を装備するためマルコニー社と折衝を行ったが、そのロイヤリティーは巨額であり、購入を諦めざるを得なかった。しかし、軍令部員の外波内蔵吉少佐は無線通信の重要性を認識し、速やかな調査研究の開始を部内関係者に説き、1899年(明治32年)10月諸岡軍務局長は外波にその調査を命じた。 一方この時期、逓信省電気試験所に於いても同様の動きがあり、1897年の半ばにマルコニー式無線電信機の調査を開始し、主任技師松代松之助はイギリスで発行された電気雑誌の記事を参考に感応コイル、火花放電器、コヒーラ検波器等により送受信機を完成させ、1浬(1852m)の通信に成功した。1898年(明治31年)11月には月島の海岸と品川沖第5台場間の通信が十分可能となり、12月には公開実験を行うまでになっていた。 電信調査委員会の発足 1890年(明治33年)2月、外波少佐を委員長とする無線電信調査委員会が発足し、委員には海軍側技師と共に逓信省の松代松之助技師、第二高等学校教授の木村駿吉他、無線電信の専門研究家が招聘された。委員会の目的は3年以内に海上80浬(約150Km)の通信が可能な電信機を開発することであり、研究は海軍大学校構内の倉庫で松代松之助、木村駿吉を中心に、逓信省が開発した無線電信機を基に始められた。以後研究は進み、1901年(明治34年)5月には実用無線電信機の製造に着手する事になり、霧島、朝日、初瀬、三笠、磐手、出雲の6艦分の予算措置がなされた。 完成した電信機は艦艇間45浬、艦艇・陸上間70浬で一応満足のいくものであり、同年9月調査委員会は調査終了報告を提出し、これを受け10月18日、本電信機は兵器として制定され、海軍初の無線兵器「34式無線電信機」が誕生した。本機の完成により、無線電信委員会は当面の目標を達成し解散した。 36式無線電信機の誕生 1903年(明治36年)になると34式無線電信機の改良が始まった。之より先、1901年(明治34年)に海軍は無線電信に関わる最新情報の収集、構成部品の買い付けを目的として、外波内蔵吉、木村駿吉を欧米各国の視察に派遣し、多くの新知識と最新の部品を得ていた。 34式無線電信機改良の主目的は、国産構成部品の耐久性の向上、連続使用時に於ける信頼性の向上及び通信距離の拡大であった。このため、空中線同調回路の付加、スパークギャップの設置位置の変更(従型より横型)及び構造の変更、絶縁材料の改良、コヒーラ検波器の感度向上、水銀開閉器の改良等大幅な改修が実施された。電信機全般に関わる改良作業は確実な成果を上げ、本機は36式無線電信機として制式化された。 36式の完成は日露戦争が没発する4ヶ月前の事であったが、連合艦隊は本電信機を急遽整備し主要艦艇に配備した。しかし、一部の二等巡洋艦は整備が間に合わず、引き続き34式無線電信機を装備した。無線電信機の改良 1907年(明治40年)になると、36式の改良型となる同調式の40式無線電信機が開発された。1910年(明治43年)には送信機の電源に500Hzの交流を使用した43式無線電信機が兵器化され、故障の多かった水銀式開閉器から漸く開放される事になった。また、受信機もコヒーラ検波式より黄鉄鉱の鉱石検波器に変更され、符号印字出力式は受聴式に変更された。瞬滅火花式送信機の開発 1912年(明治45年)4月に築地の海軍造兵廠に電気部が開設され、同時に人員の拡充がなされた。新電気部が最初に着手したのは36式以降に開発された簡単火花式送信機を瞬滅火花式に改造することであった。 瞬滅火花式とは火花の放電間隔を0.3m以下にすると火花抵抗が殆んど無限大となる放電特性を利用したもので、簡単火花式における一次回路、二次回路の密結合による2周波の発生が抑制され、二次回路共振の単一電波のみが発射される。また、使用電圧が低くなるため、放電による騒音が著しく軽減される利点が有った。 本作業により従来の簡単火花式送信機は瞬滅火花式に改造され、1913年(大正2年)5月に元年式送信機として制式化された。外国製機材の導入 34式、36式及び元年式送信機は、海軍が開発した国産無線電信機であった。しかし、日露戦役後に於ける諸外国の無線電信技術の発達は目覚ましく、このため、従来の国産品主義より脱し、独逸テレフンケン社の瞬滅火花式送信機を多数購入し、テー(T)式として制式化をおこなうことになった。 導入されたT式送信機の動作は極めて良好で、このため、既設の瞬滅式火花放電器はT式型に改修され、改良機は2年式無線電信機として制式化された。この2年式は小型軽量で音質も良く、用兵側に好評であったため、造兵廠電気部は本式送信機の全面的な国産化に取り掛かり、後に4年式送信機として制式化した。 しかし、以降は不衰滅電波の電弧式(アーク式)の導入に続き、真空管式が主流となり、火花式送信機の整備は終了した。(注-1) 海軍館は東京・原宿の東郷神社東隣りに建設された大日本帝国海軍の記念館で、海軍関係の資料・参考品などの展示を行うと共に、社交施設としても使用され、海軍将校会館とも呼ばれた。海軍館の建物は1937年(昭和12年)で、建物は大理石作りで正面に円柱を備える堂々たる洋館であった。東京大空襲では被災したが焼失を免れ、終戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収された。返還後は厚生省(当時)が設立した日本社会事業大学が使用し、旧海軍館は同大学の施設として1988年(昭和63年)まで使用された。その後、同大学は都下清瀬市に移転し、旧海軍館の建物は1992年(平成4年)に解体された。(注-2) 資料出典太平洋学会誌「皇国の荒廃を賭けた情報通信網と木村駿吉」(2005年5月号)、元資料出典「海軍軍令部『極秘明治三十八年海戦』第四部巻四」