今般、収集家の情報を基に、米国公文書館(National Archives)が所蔵する帝国陸海軍電波兵器に関わる写真資料を多数発見する事が出来た。当該写真の何れもが、1944年(昭和19年)末よりフィリッピンのレイテ島で鹵獲された機材であるが、その中に発振周波数可変式のマグネトロン「M-312改」が含まれており、驚愕する事になった。「M-312改」の開発 帝国海軍は1941年(昭和16年)末に水上警戒用マイクロ波レーダー「2号電波探信儀2型(22号電探-3000MHz)を開発したが、本機には送信機用マグネトロンM-312及び、受信機用マグネトロンM-60の二種類が使用されていた。このため、マグネトロンの装備に際しては、両管の発振周波数が殆ど一致した物を使用する必要があったが、これにはM-60を大量に生産し、送信管M-312の周波数に合致する物を選択する方法が採られていた。しかし、本式では通常、送信マグネトロンを変更する度に、受信マグネトロンも取替る必要が多々あり、また、この逆も発生し、保守の観点から誠に不都合であった。 この問題を解決するため、日本無線の中島茂技師は外部より発振周波数の可変が可能なマグネトロン「M-312改」を開発した。しかし、本管は海軍側に拒絶され、今日「M-312改」は何れの資料に於いても、試験管に分類されている。驚愕の所在 上記の経緯により、研究室の試験管で終わったはずの「M-312改」を、今般米軍がフィリピンで鹵獲した機材の中に発見し、本管に関わる是までの定説が覆される事になった。また、同一の場所で鹵獲された機材の中には、22号電探の送信機と超再生式受信機が含まれており、これらより、「M-312改」が戦争中期には実戦使用されていた可能性も伺え、誠に興味深い事態となった。発見写真「M-312改」補足 「M-312改」の現物は上越大学真空管館(萩原コレクション)が所蔵し、開発時の写真は中島茂資料の中にも含まれていた。しかし、何れもが研究開発時の形態で、ソケット部や周波数調整部は開放されたままで、普及発振管構成には成っていない。一方、発見した写真の「M-312改」は普及型マグネトロンM-312と同一のソケット構造で、突起した周波数調整機構部分には周波数目盛付の同調ダイアルが付加され、その構造は明らかに実用管である。これらより、「M-312改」は是までの定説とは異なり、一定量が生産され、本管を装備した送信機が実際に配備されたと推察される。M-312諸元構造: 陽極8分割空洞共振型マグネトロン試験条件: パルス幅0.67μs、繰返周波数2500Hz線條電圧/電流: 10V/19.3A 陽極電圧: 9.8-11.2KV発振周波数: 3,487MHz(波長9.84cm) 陽極電圧: 9.8-11.2KV尖頭陽極電流: 2A尖頭入力: 22kW尖頭出力: 6.6kW磁界: 1000ガウス中島茂技師手記 以下に中島茂著「創意無限」に納められた「M-312改」に関わる記述を抜粋した。「・・・私は、当初から受信機のローカル・オッシレーターには小型のマグネトロンの使用を考えていました。しかし、送信用と受信用の二種類のマグネトロンを同一周波数で発振させるにはかなりの無理があるのです。そこで、送信用のマグネトロンの周波数を外部から微細に調整することを考えて、これに適合する物を試作し成功しました。これは陽極に近接して側板を設けて、この側板と陽極の間隔を微細に調整して発振周波数を変化させるものでした。そこで、送信機にこの型のマグネトロンの採用を提言しましたが、当時の海軍技術研究所のマイクロ波レーダーの責任者は、受信用マグネトロンを多量に製作し、それらの中から波長の合致したものを選別し、実用に供すべきと云って私の意見に賛同してくれませんでした。」22号電探開発の経緯 1941年8月2日、海軍大臣訓令が発せられ、海軍技術研究所電気研究部1科では日本無線と協力しマイクロ波電探100号の試作研究が始まった。当時技術研究所は日本無線との協同研究により波長10cm(3,000MHz)で連続出力500wの水冷式マグネトロンM-3の開発に成功しており、マイクロ波の発振管については世界的レベルにあった。しかし、受信機の検波や空中線を含む高周波回路に関わる技術は何も確立されておらず、特に受信機の検波方式は問題であった。当然の事として、当時受信機の構成はスーパーへテロダイン方式が一般的であったが、周波数変換に必要な第1検波を行う検波管、検波器の問題が解決できず、結局、超短波無線電話機等で海軍が好んで使用した超再生検波方式が採用されることになった。 間もなくして出力20mwの受信機用マグネトロンM60が開発され、この球を検波管とした他励式超再生受信機が完成した。この受信機は動作がきわめて不安定であったが、調整次第では高感度での受信が可能で、また他に選択の余地もないため研究は進められ、試作マイクロ波レーダー103号が完成した。 1941年10月28日、鶴見実験所(芝浦工作機械屋上)で動作試験が実施され、波長10cmの電探として初めて反射波を得ることができた。本機はその後小型化され、実用機は2号電波探信儀2型(22号)として制式化されたが、第一線の兵にとり、超再生式受信機は調整が非常に困難で、艦隊に於ける運用は不振を極めた。 その後受信機は第一周波数変換がM-60によるオートダイン検波のスーパーへテロダイン方式に改修され小康を得たが、しかし、受信感度は低下し、未だ調整も複雑で、22号電探を兵器として運用するには抜本的な対策が必要であることは明らかであった。 これより先、菊池正士技師(物理学者)の指導でマイクロ波の検波に適した鉱石の研究を行っていた霜田光一学生(東大理学部大学院生) はパイライト(黄鉄鉱)の結晶による検波器の開発に成功していた。霜田学生は当時マイクロ波を使用した3号電波探信儀1型(31号射撃管制用電探)の開発に加わっており、1944年(昭和19年)3月には本研究目的で、鉱石検波器を使用したスーパーへテロダイン式受信機を試作し、パルス波の受信に成功していた。 1944年7月24日、「あ号作戦」の敗北によりサイパン島が陥落すると大本営は南西諸島、台湾以南の敵を迎撃する「捷(しょう)号作戦」を決定し、海軍は最後の艦隊決戦となる捷1号作戦の準備を始めた。本作戦には水上射撃管制用電探が不可欠であったが31号電探の開発は進まず、このため電波研究部は応急対策として、22号電探の受信機をスーパーへテロダイン方式に改造して安定性と操作性を高め、これに増力式空中線操縦装置及び精密測距装置を付加した準射撃用電探の速成を模索した。 8月末、技術研究所三鷹分室で現用のオートダイン式受信機を第1検波に鉱石を使用したスーパーヘテロダイン式に改修する実験が行われ、結果きわめて安定した受信機に改良出来ることが確認された。22号のオートダイン式受信機は受信用マグネトロンM60が検波・局部発振を兼任し、検波出力を14MHzの中間周波で4段増幅する構造であった。しかし、従来の検波・発振回路に鉱石検波回路を付加すると、第1検波が鉱石、局部発振がM60のスーパーヘテロダイン式受信機へ簡単に改造することが出来る。このため、早速既存受信機のスーパー化が決定され、改修作業が始められた。改造は高周波部に鉱石検波回路部を付加し、中間周波増幅段のゲイン不足を補うためM60付近に中間周波増幅初段回路を追加する簡易なものであった。 当時艦隊の主力は捷1号作戦に備えシンガポール方面に集結していたが、担当部門は要員と資材を急派し、現地工廠職員と共に22号電探の改修を行った。本工事により艦隊は最後の洋上決戦を目前に漸く実用的な水上監視用電探を装備し、遅きに失したが、付加装置を装備した戦艦、巡洋艦群はレイテ沖海戦で、本格的な対艦電探射撃を行う事が出来た。写真補足 組写真@が今般発見したマグネトロン「M-312改」の写真で、突起した部分が周波数調整機構である。突起部分の蓋上部には周波数目盛付の同調ダイアルが装置されている。 写真Aが、中島茂技師が開発した「M-312改」である。 組写真Bが22号電探に使用された普及型マグネトロンM-312で、「M-312改」のソケット部は本管と同一部品により構成されている。 写真Cは22号電探の超再生式受信機である。検波管M-60の交換を考慮し、球は受信機の前面中央部分に装置されている。右のダイアル2個は高周波部同調用のスタブである。電源、M-60の発振モード他調整部は別筐体に収容されている。