現在当館は旧軍無線機材の編纂に関連し、我が国のレーダー開発に大きな影響を与えた英米独のレーダーについても併せその概要を纏めている。之までに幾度となく紹介してきたドイツ空軍の対空射撃管制レーダー「ウルツブルグ」も当然その対象であるが、先般英軍による本機の奪取作戦について纏めたので、その概要を参考資料として以下に掲示した。ブルネラ奇襲(Bruneval Raid) 1942年2月27日、英国陸軍落下傘部隊はフランス西部の村ブルネラ(Bruneval)に設置されたレーダーサイトを奇襲し、ウルツブルグの主要構成機材を奪取した。この作戦成功はダンケルクで敗退し、雪辱を期す英国国民の士気を大いに鼓舞し、また、英国技術陣に貴重なドイツレーダーの情報をもたらした。以降この作戦はOperation Biting 又はBruneval Raidと呼ばれ、大戦期の英軍による最も輝かしい攻撃として、戦史に記録されることになった。作戦の計画 フランスでの戦いに敗れダンケルク(Dunkirk)より撤退した英軍は、その反撃の重点をドイツに対する戦略的爆撃に移した。しかし、1941年頃より爆撃機の損失が増加し始め、英国空軍(RAF)は偵察飛行や暗号解読、諜報活動により、その原因はドイツ軍が新たに導入を進めているレーダー(ウルツブルグ)にあると結論づけた。このため、空軍爆撃部門やレーダー技術関係部門より、可能であればそれらの一基を入手し、詳細な解析を行うべきとの提案がなされた。 ウルツブルグレーダーのサイトはドイツ各地や、占領地で確認されていたが、この内、英国海峡の対岸で、フランスのル・アーヴル(Le Havre)の北19Km位置したBruneval村の岸壁上で発見されたサイトは、地形的に最も襲撃が容易と考えられた。早速計画が立案され、襲撃にはこの時期に編成が進んでいた第一空挺師団(落下傘部隊) が当たることになり、第二空挺大隊C中隊の200名が選抜され、直ちに攻撃の習熟訓練が始められた。作戦の目的はウルツブルグを解体しその主要部分を入手し、分解が困難な部分は写真撮影を行い、併せ、坦務要員のドイツ兵数名を捕虜として連れ帰る事であり、このため、攻撃要員にはRAFの電子技術担当も複数含まれていた。 1942年2月27日の深夜、落下傘部隊は首尾良くBruneval村の周辺に降下し、レーダーサイトの急襲に成功した。技術担当はヴュルツブルクの主要高周波部を解体し、併せ各部の写真撮影を行い、戦闘要員はドイツのレーダー坦務要員二名を捕虜とし、任務終了後部隊は最寄りの海岸より脱出し帰投した。この襲撃は完全な成功を納め、英国落下傘部隊の損害は隊員死亡2名、負傷8名、不明6人(捕虜となる)であった。 この攻撃で奪取したウルツブルグの構成機材は、以下の送受信装置構成機材である。・空中線装置輻射器・送受信機高周波部(送信機発振部/受信機周波数混合・局部発振部)・変調機・受信機中間周波増幅部・IFF送受信機 なお、ドイツ軍の反撃もあり、同期信号発生部、波形指示装置及び電源部の入手は放棄された。英軍の誤算 Brunevaの襲撃により英軍はウルツブルグの主要機材を入手し、その検証、評価を行うことが出来た。しかし、襲撃ウルツブルグの選定に際し、英軍は大きな間違いを犯した。彼らが奪取に成功したのは1939年に導入され、ウルツブルグの原型に分類される最初期の機材で、本機は対空射撃管制能力を具えていない。ドイツ空軍は原型に敵味方識別機機能(IFF)を付加し、1940年4月にFuSE62「Wurzburg-ウルツブルグ(A型)」として制式化を行い、局地戦に於ける対空監視、敵味方識別及び友軍機の誘導に使用していた。 1940年頃よりRAFに大きな被害を与えていたのは、この時期に導入が進んだ等感度測定方式の射撃管制レーダー「ウルツブルグD型」で、本機の外観はA型に類似するも、その機能は全く異なる別機材であった。 ウルツブルグの検証 Bruneval Raidで英軍が鹵獲したウルツブルグA型は、最大感度方式のレーダーであった。調査を担当した英国「通信研究所(Telecommunications Research Establishment- T.R.E.)」の技術陣は構成機材の調査と、捕虜の証言により、彼らが入手したのは一世代前の局地戦用対空監視レーダーであることを知り、大いに失望したと考えられる。 しかし、ウルツブルグの構造は英国のそれとは異なり、各部がブロック化され、差替による補修の容易さ、機能の拡張性は際立っていた。また、慎重に設計された頑丈な構造は運用性に優れ、構成回路と併せ、測定精度の向上に貢献している事は明らかであり、各部にドイツに於けるレーダー技術の高さを示していた。このため、一方でウルツブルグは英国の技術者に、驚歎を持って受けとめられたとも考えられる。 通信研究所は検証したウルツブルグの評価を報告書「T.R.E Bruneval Report No. 6/R/25 FINAL TECHNICAL REPORT ON THE GERMAN RDF EQUIPMENT CAPTURED AT BRUNEVAL ON 28TH FEBRUARY 1942」として纏めた。その「結論」は以下の様な内容であるが、記述からドイツのレーダー技術の高さに心穏やかでない事が判る。また、自己を正当化するため、英独機材のあまり意味の無い性能比較などを行っている。 実際、1941年に導入されたウルツブルグD型は、英軍が1940年の後半に導入した射撃管制レーダーG.L. MK.U型を測定精度、機動性共に大きく凌駕していた。英軍の対空射撃管制レーダーがウルツブルグD型を越えるのは、1942年の末にカナダが開発したマイクロ波レーダー(波長9cm)G.L. MK.V型からである。T.R.E報告書「結論」 本機は運用性能とレーダー技術に関して特段の独自性、機能は具えておらず、ごく一般的な物である。英国の技術と比較して、方位角、仰角、距離測定の精度不良等、多くの点で本機は遅れている。 一方、本機が1940年に作られた装置であることを認識する必要があり、恐らく設計は1939年以前と考えられる。また、本機は正確な測定精度を必要としない、対空監視部隊の補助装置として設計されたと考えられる。 さらに、本機が1939年に於いて波長50cmの装置である事は重要で、この時期英国では、この波長で最大測定範囲50kmの装置は開発されていなかった。我々が航空機用機材で之を実現したのは1941年である。 本機は対空監視用の防衛兵器と考えられ、特段の新機能を具えていない。しかしながら、技術的には、機械的構造および一般的なエンジニアリングの設計に於いてこの装置は傑出しており、特に、開発と生産性に対する考慮、装置の堅牢性は非常に注目に値する。 本装置は装置全体が頑強な筐体に収容されているだけではなく、内部に装置される個々のユニットも頑丈な構造である。真空管のような取り外しが可能な部品でさえ、我々の物よりも堅牢である。この堅牢性は多用するアルミニウム鋳物及び軽合金及び、その整形技術により実現されている。この製造方法を経済的に実現するには高度の設計技術が必要であり、その獲得には長い期間を要したと考えられる。しかし、それが達成された時、多くの異なる機器にその技術を転用することが可能となる。 構成各部をサブユニット化する製造方法には、整備上の利点がある。また、ユニットの設計変更、交換により装置の性能を向上させることが可能となる。例えば、この装置ではIFアンプ部と局部発振部は、おそらく本機用に設計された物ではないと考えられる。 一方では、標準的な製品ではない特殊な真空管や特別設計のユニットを躊躇なく、数多く使用している。ドイツでは我々とは異なり、使用する真空管の種類を制限するような設計が行われているとよく言われる。しかし、本装置はこれに該当しない。 鹵獲した装置では表示部と電源部を除き、6種類の異なる真空管が使用されている。 方や、英国のASV Mark II では僅か5種類の真空管を使用し、良い動作結果を得ている。ドイツ機材の IFアンプには1種類のバルブが多数使用され、変調機も同様である。しかし、我々の基準では、本機は真空管を使いすぎている。 レーダーの全体的な性能は、主に2つの特性、送信機の電力および受信機の信号対雑音比に依存する。ドイツ機の尖頭電力は5kWであり、我々のNT99を使用した波長50cmの送信機は100KWである。ドイツ製受信機のノイズレベルは20dbで熱雑音を越えており、我々の波長50cm機材の受信ノイズレベルは12dbである。これを電力比で考えると、我々の受信機はドイツの物に比べ5倍、送信出力では20倍優れている事になる。 これらの基準によって判断されるドイツ機の性能は低い。しかし、本機の設計は恐らく1939年で、当時我が国の機材はこのドイツ機に匹敵する性能を備えていなかった。 この機器を調査するに当たっての関心事の一つは、如何にしたら本機を有効に無害化出来るかを探ることであった。しかし、残念ながら、これははあまり期待でき無いと考えられる。 この装置は構造からその運用周波数を迅速に変更することは出来ないが、広範囲に同調を行う事は可能である。受信試験では実際にはかなりの周波数範囲で同調が可能な事が確認されている。 1942年5月8日DHP / SWWウルツブルグへの対策 鹵獲ウルツブルグの調査に際し、英国技術が特に注目したのは送受信機の同調回路で、本回路は一度運用周波数が設定すると、その変更は容易ではなかった。この時期RAFは航空機によるレーダー波の受信調査で、ウルツブルグの運用周波数は580MHz近辺の3波であることを確認しており、この周波数に妨害電波を発射すれば、当座ドイツの対空射撃管制レーダーを無害化出来る。早速、航空機搭載型の対ウルツブルグ妨害電波発射装置が開発されたが、これは以降熾烈を極めるレーダー戦争の始まりでもあった。 当時レーダーに対する最も有効な対抗手段は、空中を漂うアルミ箔(Chaff)による攪乱であった。当時英独両空軍は既に対抗措置として本式の研究を完了しており、英軍はこれをWindowと呼称し、ドイツは Düppelと呼んだ。しかし、一度Chaffを使用して敵のレーダーを攪乱すれば、自軍も容易に同様の攻撃を受けることは明白であり、この時期は、両空軍は立ち竦みの奇妙な状況にあり、その使用を自制していた。英軍が欺瞞Windowの使用に踏み切るのは、1943年7月の後半より始まったハンブルク爆撃からで、当然ドイツ空軍も同様の対抗手段を英国本土爆撃時に使用し、この際限のないレーダー戦は大戦終了まで続いた。