酷暑の8月が漸く終わった。本年は戦後80年という節目にあたり、戦争の記憶が改めて呼び起こされた、重く深い月であった。 そうした中、終戦記念日の前日である8月14日、裏千家前15代家元の千玄室(15代斎号鵬雲斎)が逝去された。享年102。まさに大往生であったが、氏は戦争末期の一時期、徳島海軍航空隊の白菊特攻隊に配属されていた。 小生は茶の湯を嗜むわけではないが、その歴史や道具類には関心があり、かつて国立民族学博物館名誉教授・熊倉功夫先生の講座で学んだことがある。また千玄室についても、15代家元鵬雲斎時代に、インタビューや指南の様子を折に触れてテレビで視聴しており、直接の面識はないながらも、ある種、馴染み深い人物であった。 千玄室が白菊特攻隊に配属されていた当時、同期には、のちに俳優として大成する西村晃がいた。特攻隊員として結ばれた両者の絆は強く、1997年(平成9年)3月に西村が逝去した際には、千玄室(当時鵬雲斎)が葬儀委員長を務めている。 白菊特攻隊の乗機は機上作業練習機「白菊」で、航法・通信・爆撃・射撃・写真撮影などの実地訓練に用いられた機体である。特攻仕様の白菊では搭載燃料を倍増し、250kg爆弾2発を両翼下に懸架したが、重量過多のため最高速度はわずか180km前後にとどまった。このため昼間の出撃は不可能で、主に夜間攻撃に用いられたものの、特攻機としてはきわめて不向きであった。 ところで今回、千玄室の訃報を機にその生涯を調べていたところ、西村晃が海軍飛行服姿で椅子に腰かけている写真を見つけた。出典は海上自衛隊鹿屋航空基地史料館とされているが、驚いたことに、西村の横には機上用と見られる無線電信機が写っていた。 当然ながらその型式が気になり詳細に観察したが、小生には該当する機材の記憶がない。よく見ると、この無線機は海軍機上用の「96式空2号無線電信機改2」の右側を拡張したような構造で、これまで確認したことのない機種であった。 さらに写真全体を観察すると、西村の座っている椅子はスチールパイプ製で、背後の建物の壊れ方もわざとらしく、戦中の海軍基地で撮影されたものとしては不自然である。また、西村の仕草もどこかおどけているように見える。 西村晃は『雲流るる果てに』や『あゝ同期の桜』など、多くの特攻映画に出演している。このため、本写真はそうした作品の撮影現場で、合間に撮られたスナップ写真ではないかと推察される。したがって、共に写る正体不明の無線機も、撮影用の小道具であった可能性が高い。当時、無線機などの機材は、美術スタッフが適当に作るのが一般的であったからである。