電波探知機・電波探信儀用鉱石検波器の研究
東京大学名誉教授霜田光一

1. はじめに昭和18年9月までの戦況



 私は昭和16 年(1941年)4月、東京帝国大学理学部物理学科に入学し、戦時中の半年繰上げで昭和18 年9月に卒業した。昭和16年12月8日、ハワイのオアフ島真珠湾に停泊中の米国軍艦に対する奇襲攻撃で、第2次世界大戦における太平洋戦争が始まった。昭和17年2月には英国軍の支配していたシンガポールを攻略した。引き続いて、石油などの諸資源を得るためにジャワ、スマトラなどの南洋諸島を占領した。それらの物資を本土に送るにも、拡大した戦場に兵員、兵器、食料を運ぶにも、莫大な輸送船が必要であった。しかし、昭和17年6月のミッドウエー海戦で空母4隻と航空機322機を失うという壊滅的な打撃を受けた海軍は、次第に戦力を失っていった。昭和18年2月にはガダルカナル島から全軍撤退し、4月から始まったソロモン沖海戦では、また多数の航空機と艦船を失って敗退した。北太平洋では5月にアッツ島も陥落し、太平洋全域の制空権も制海権も奪われた。昭和18年9月8日にはイタリアが無条件降伏し、太平洋方面の米国潜水艦は120隻に増え、9月中に日本船舶は45隻も沈められた。


 日本の航空機隊は敵艦を発見する前にレーダーに捕らえられて戦闘機や高射砲で撃墜され、特攻攻撃もほとんどなすことなく阻止されてしまった。夜間、暗闇に紛れて水雷艇が近接して発射する魚雷攻撃も、魚雷の有効射程に入る前にレーダーで発見されて暗闇から砲撃されて沈められるか逃げかえる他なかった。大艦巨砲主義で魚雷攻撃と爆撃に固執していた艦政本部もこの頃になってようやく、それまでは邪魔者扱いしていたレーダーの重要性を認識するようになったのである。


 電波の反射を利用して目標を検出する装置はレーダーと呼ばれているが、これは米国でRadio Detection And Rangingの頭文字を集めて作られた造語RADARである。当時英国ではRadio Locatorと呼んでいた。日本海軍では電波探信儀、陸軍では電波警戒機または電波標定機と呼び、略称は電探であった。そして敵のレーダー電波を探知する装置が逆探知機または電波探知機である。
 メートル波を用いる電波探信儀は、陸上局にも艦船にも配備されて、たえず改良、増強され、航空機の発見と追跡に役立っていた。しかし、海上の艦船、とくに潜水艦の検出にはもっと波長の短いセンチ波を用いなければならなかった。海軍技術研究所は日本無線との共同研究で、開戦直前の昭和16年10月に波長10cmのマイクロ波(極超短波)を用いる水上見張り用電波探信儀を試作し、実験に一応成功していた。そして昭和17年4月、アリューシャンとミッドウエー作戦に出撃する戦艦「日向」に、波長10cmの電波探信儀(2号2型のプロトタイプ)が実用試験を兼ねて装備された。ミッドウエーで大敗した海軍は、その撤収作戦において、悪天候と通信連絡の不備のため、重巡「最上」と「三隈」が衝突して「最上」は大破し、「三隈」は沈没するなど大混乱したが、「日向」は電波探信儀のお陰で味方の艦船を確認しながら無事撤収することができた。しかし当時のセンチ波電波探信儀は重量が過大でしかも故障が多く、動作も不安定だったので、正式採用にはならなかった。
 同盟国ドイツからの情報によれば、昭和17年頃には英国でも米国でもセンチ波レーダーを研究開発中であった。そして、昭和18年に英国は欧州で、米海軍は太平洋にセンチ波の高性能見張り用レーダーと射撃用レーダーを続々と投入した。その結果、ソロモン海戦(8〜10月)以来、日本の航空機も軍艦も敵の姿を全然感知しないうちに突然レーダーによる射撃と雷撃を受けて撃墜撃沈された。そこで、これまでは消極的だった電波兵器への要望が陸海軍の技術陣に殺到するようになった。


 改良された2号2型電波探信儀(波長10cmのレーダー)は43号駆戦艇に仮装備された。防水して伊158号潜水艦に装備された2号2型電探は、昭和18年5月の試験結果は性能不十分で重量容積とも過大であり、不適当と判定された。駆逐艦「島風」は建造途中で2号2型電探の装備が決定し、6月に竣工して7月のキスカ作戦に参加した。しかし見張り警戒に使用できるだけで、測敵には使えなかった。6月には修理のためドック入りしていた戦艦「大和」をはじめ駆逐艦「磯風」にメートル波電探と共に2号2型を装備し、7月には重巡、軽巡にも装備されたが、動作不良が多かった。資材の不足や熟練工の不足で生産の量も質も低下し、また電波探信儀を整備、修理する技術者も、オペレーターの訓練も不足していたので、不十分な性能しか発揮されなかった。


 2号2型電波探信儀は、8分割陽極マグネトロンM312の発振する波長10cmの出力を幅が数μsのパルスにして発射し、目標からの反射波を小形の8分割陽極マグネトロンM6 0で超再生受信するものであった。パルスの繰り返し周波数は2500Hz、尖頭出力は2kWだった。送信と受信にはそれぞれ開口径40cm、長さ80cmの円錐形の電磁ラッパが用いられ、導波管は円形断面だった。そのため、アンテナの旋回につれて電波の偏波面が回転するというトラブルが生じたが、その対策と送受共用の単一電磁ラッパ方式が開発されたのは昭和19年になってからだった。また、大型の電磁ラッパ(開口径62cm、長さ130cm)が採用された。


 超再生検波では、受信マグネトロンの陽極電圧と磁界の強さと方向を発振のしきい値付近に保って、陽極に適当な振幅で高周波のクエンチング電圧をかけ、発振が起こったり抑えられたりする状態にしておく。そうすると共鳴する波長の弱い電波が来たとき、発振が早く立上がり陽極電流が変化するので、それによって電波を受信するのである。最高感度が得られたとき、2号2型電探は大型戦艦を35km、浮上中の潜水艦をおよそ5kmの距離で発見することができたが、その調整は非常にデリケートで熟練を要し、受信機の操作は神業だといわれていた。そこで、日本無線ではより安定なオートダイン受信機を研究開発中であった。


 昭和18年7月、海軍技術研究所では、それまで嘱託であった放送技研の高柳健次郎博士を少将待遇の技師、大阪大学の菊池正士教授を奏任官待遇の技師として迎え(発令は18.12.4)、菊池技師に電探の基礎研究、高柳技師に兵器としての実用化を委託することになった。


 昭和18年6月25日には学徒動員が実施されたが、理工学系の学生は卒業まで徴兵延期され、昭和19年3月卒業予定の学生は、半年繰り上げて昭和18年9月30日卒業となった。しかし卒業生の内、少数の学生を徴兵延期して大学に残す大学院特別研究員制度が設けられ、昭和18年9月、東京帝国大学理学部には15人が割り当てられた。私は在学中は原子核実験を志望し、卒業研究では熊谷寛夫助教授の指導でガイガーミュラー計数管の放電機構を研究していたが、第1回大学院特別研究生に選ばれて、卒業後は大学院で熊谷先生とともに戦時研究に従事することになった。