5. あとがき



 サイパンを基地とする超重爆撃機B29の本土空襲が19年11月から次第に激しくなったので、私は鉱石検波器をつけた小形のパラボラ反射鏡を3cm波受信用に作り、10cm波の探知実験に使った手製の47号受信機につないでB29のレーダー電波を探知した。12月6日の空襲時には三鷹分室で繰り返し周波数が約600Hzと約1000Hzのレーダーパルスを検知し、20年1月にはパルス波形をオシロスコープで観測することもできた。


 鉱石スーパーは感度も信頼度も高いので、射撃用電探の研究開発も鉱石スーパーを受信機に採用することによって進んだ。鉱石スーパーの2号2型電探を射撃用に改造した装置を軽巡洋艦「木曽」に装備して、19年10月22日に行なった射撃実験の結果は、戦艦を最大35kmで捕捉でき、測角精度0.25度、測距精度250mであったという。送受共用のパラボラ反射鏡を用いる本格的な射撃用220号電探は19年8月29日に試作第1号機の性能試験が行なわれた。潜水艦を標的にしてかなりの性能が実証されたので、実験と改良を重ね、20年2月から220号電探射撃用方位盤の試作研究も始められたが、すでに壊滅寸前の海軍には無用の装置になっていた。


 航空機に搭載して、地面からの反射波を地図のように表示する電探は、パノラマ式あるいは全方位式電探と呼ばれたが、米国では平面図表示という意味でPPI(Plan Position Indication)と称していた。センチ波を用いるパノラマ式51号電探の研究開発も鉱石スーパーの採用により促進された。私は受信機と送受切換回路などの研究を担当していたが、20年7月に試作機第1号が完成した。青森県の三沢基地で一式陸攻に搭載し、7月末の第1回の飛行実験では15km程度の範囲しか地形が出なかったが、8月8日の第2回の実験では30kmほどまで見えるようになったということである。しかし翌8月9日の空襲で三沢基地は壊滅的な損害を受け、試作されたパノラマ式電探は一式陸攻とともに灰燼に帰してしまった。

 

 海軍でセンチ波電波探信儀の受信機になぜ超再生検波方式が採用されたのか?という質問をしばしば受ける。その理由の一つは、鉱石検波器は不安定で感度も低いと考えられていたからである。実際、通常使われていた鉱石検波器は振動に弱く、軍艦がフルスピードで走り出せば、大砲を発射する前に駄目になる有様だった。振動や衝撃に強くするには、なるべく太くて丈夫な針を用いて鉱石検波器を作るのが良いというのが常識だった。しかし私たちは、物理学的に考えれば細くて短い針を使うほうが針先と鉱石の摩擦力で接触点が動きにくい筈であるとの確信をもって、図4のような構造を考案して衝撃に耐える鉱石検波器を実現したのである。


 超再生が優先されたのには、他にも理由がある。当時、国産の真空管も回路部品も信頼度が低く、寿命が短かったので、真空管の数と部品の数が多くなると、故障が頻繁になる。そして、予備の真空管も部品も多数必要になる。そこでスーパーヘテロダインより真空管も回路素子も少なくて済む超再生が選ばれた。当時の日本では、電子装置生産の質も量も不十分だったのである。


文献
(1) 極超短波用鉱石検波器に就いて、熊谷寛夫、霜田光一、飯尾慎、湯原二郎 :日本物理学会誌、2巻5号(1947)176-182.
(2) 戦時中の研究の思い出、霜田光一 :日本物理学会誌、32巻10号(1977)800-807.