先般ドイツのEbay Auctionに、ドイツ空軍が大戦末期に開発した爆撃管制用PPI式マイクロ波レーダー「Berlin」(ベルリン)の受信機局部発振器が出品された。大戦期に於ける各国のレーダー資料を蒐集する当館にとり、正に驚愕の一品であったが、残念ながら出品先はドイツの国内Auctionであり、応札は叶わなかった。 ところで、帝国海軍は不完全ながらも、1941年(昭和16年)の後半には3,000MHz帯を使用したマイクロ波レーダー「2号電波探信儀2型」(22号電探)を開発し、以降その改良に努めた。しかし、驚くことに、当時技術大国のドイツでは本周波数帯は顧みられず、ドイツ空軍がマイクロ波レーダーBerlinを導入したのは1944年の末で、それも英国空軍(RAF)の地表探索・爆撃用レーダーであるH2Sの模倣による開発であった。 本件に関連し、ドイツの蒐集家Karl Gerhard Buck氏より所蔵する当該局部発振器の写真提供があった。このため、写真と併せ、英国、ドイツに於けるレーダー開発の若干について概観を行ってみた。英国に於けるレーダー開発 レーダーの研究、開発は1930年代中頃から、先進各国に於いてほとんど同時に始められたが、その中で最も真剣に取り組んだのは英国であった。1933年(昭和8年)にドイツでヒットラーが政権を取り、その拡張主義が顕著になると、イギリスでは近い将来、ドイツとの戦争は避けられないとの見方が広がった。開戦となれば独爆撃機の侵攻は不可避であるが、全海岸線を常時哨戒する事は困難であり、このため、敵航空機を早期に発見する何かの手立てが必要であった。 この頃,英国物理研究所の所長ロバート・ワトソン・ワット卿(Sir Robert Alexander Watson-Watt)は電波の反射による電波干渉の研究を進め、この現象を利用すれば、接近する航空機を探知することが可能であるとの結論を得ていた。彼は英国政府より財政支援を受け具体的な実験を開始し、1935年(昭和10年)に政府代表団立ち会いの下、BBCの放送波を利用して、ドップラー効果による航空機の検出実験を行い、電波兵器の有効性を示した。この結果,ラジオロケーター(Radio Locator)と称する電波兵器の開発が英国防委員会により決定され、産学の総力を結集し研究、開発が進められた。 開発された航空機探知装置は、送信所と受信所が独立したバイスタティクス方式の対空警戒用パルス式レーダーで、運用周波数は22-30MHzのセミVHFであった。最初の完成機はテームズ河口防衛用として、約40km間隔で5局が設置されたが、1939年(昭和14年)9月に大戦が勃発すると警戒範囲はほぼ英国本土全周囲に拡張され、後にチェーンホーム(CH-Chain Home) と称される世界初の防空用早期警戒レーダー網が完成した。 翌1940年(昭和15年)9月から独空軍は連日英本土を空襲したが、英側はCHを中核とする防空システムシステムで数に劣る迎撃戦闘機集団を有利に運用し、多大な犠牲を払いながらもBattle of Britain(英国の戦い)に勝利して行った。 この時期問題になったのが、予想される独空軍の夜間爆撃への対処であった。既に波長1.5m(200MHz)を使用した探照灯管制レーダーSLC(Search Light Control)や、波長4m(70MHz帯)の高角砲管制レーダーGL(Gun Lying) MarkUは実戦配備が完了していたが、しかし、夜間戦闘機用迎撃レーダーAI(Air-Intercept)の開発は遅れ、海面探索レーダーASV (Aircraft to Surface Vessel) Mark Uを派生させた波長1.5mのAI Mark Wが導入されたのは1941年(昭和16年)の初頭であった。 マイクロ波レーダーの開発 英国空軍では1939年(昭和14年)以前より、迎撃機には機首に装備できる小型で指向性の強い空中線が必要と考えられていた。しかし、その実現には従来使用していたメートル波帯に代わり、波長10cm(3,000MHz)付近のセンチ波(マイクロ波)帯の使用が不可欠であったが、当時この要求を満たす有効な発振管はなかった。 英国バーミンガム大学の研究室では当初、この目的に沿う発振管として高出力のクライストロンの開発に取り組んだが、その限界が明らかになるとマグネトロンの開発に着手し、6分割の陽極を持つ波長9cm(3,300MHz)、連続出力400wのマグネトロンの開発に成功した。このマグネトロンの改良型(CV-64)及びその周辺技術は直ちに兵器化され、爆撃用、海上探索用、機上射撃用マイクロ波レーダーが次々と開発されていった。その一つが1942年(昭和17年)の末に導入された航空機用PPI式レーダーであるH2Sで、本機は夜間、荒天時の爆撃に大きな成果を上げ、派生型の海上探索レーダーは大西洋に於けるドイツ潜水艦の行動を決定的に制約することになった。RADLABの創設 之より先、1940年(昭和15年)9月、英国の軍事技術使節団がワシントンを訪問した。この際、大統領府の国家防衛研究委員会との協議に於いて、米国に対しマイクロ波による迎撃用及び対空射撃管制用レーダーの開発を勧告し、英国が開発に成功したマグネトロン(波長9cm)のプロトタイプを設計情報と共に提供した。この勧告に従い、米国ではマイクロウエーブ委員会が大学の物理学者を中心としたレーダー開発の研究所を設立することとなり、その運営管理はMIT(Massachusetts Institute of Technology)に委託され、Radiation Laboratory(RADLAB)と命名された新研究所が発足した。以後RADLABに於ける組織的な研究の成果はめざましく、波長6cm(5,000MHz)、3cm(10,000MHz)の新型マグネトロン及びその周辺技術が次々と開発され、これらは直ちに米国の強大な工業力により兵器化され、米英両軍に配備されていった。ドイツに於けるレーダー開発 1933年(昭和8年)、ドイツ海軍技術研究所のルドルフ・キューンホルドは短波長の電波を使用した反射波検出実験を行い、これがドイツに於けるレーダー開発の端緒であったと考えられている。彼はこれら技術を利用した位置測定装置を製造するための電気音響機械会社(GEMA)を設立し、1934年(昭和9年)に波長13.5cm(2,300MHz)のクライストロンを使用した連続波により、2km離れた船舶の検出に成功した。しかし、この波長帯の高出力真空管や測定機器の不足のため、波長を50cm(600MHz)に移行し研究を進めていった。この時期GEMA社と共にテレフンケン社、ローレンツ社も波長50cm帯の研究を開始し成果を上げるが、1935年(昭和10年)頃になると、電波による物体の検知には、パルス変調方式が不可欠であるとの各社共通の認識が生まれ、パルス式レーダーの研究、開発が一気に進んだ。その後各社は軍の要請に従い、各種のレーダーを開発していくが、大戦前期に於けるドイツ各軍のレーダー導入状況は、大凡以下の様なものであった。 ドイツ海軍 1939年(昭和14年)、GEMA社はドイツ海軍の依頼により波長2.5m(120MHz)で130kmの探知能力を持つ対空監視用レーダー Freya(フライア)を完成させ、本機はその後陸上用対空監視レーダーとして広く普及した。当初、このフライアは水上艦艇の監視を目的として開発された。しかし、対空監視用としては有効であったが、水上警戒用としては海軍の要望を満たすことが出来なかった。このため、新たに波長82cm(370MHz帯)、尖塔出力7kw、有効距離40kmの水上監視用レーダーSeetakt(ゼータクト)が開発され、その1号機はポケット戦艦グラフ・シュペ一に装置された。 ドイツ陸軍 一方、ドイツ陸軍は1935年(昭和10年)にテレフンケン社に対し、高射砲部隊用の対空射撃レーダー開発に関する諮問を行った。これを受け、テレフンケン社は1938年(昭和13年)に、3mのパラボラ式空中線を装備した波長53cm(560MHz帯)、尖塔出力8kw、有効距離25kmの可搬式対空射撃管制レーダーのプロトタイプを開発した。当初本機は最大感度方式であったが、その後等感度測定方式に改良され、射撃管制用レーダーFuME-62 Wurzburg(ウルツブルグ)として兵器化された。本機はその後幾多の改修を受けなが大戦終了まで使用され、レーダー史に名を残す傑作機となった。 ドイツ空軍 1941年(昭和16年)の後半、テレフンケン社はドイツ空軍の要請に応え、波長61cm(500MHz帯)を使用した夜間戦闘機用迎撃レーダーFuG-202を開発した。この種のレーダーはLichtenstein(リヒテンシュタイン)と称され各種が開発されたが、C型は尖塔出力1.5kw、有効距離4-5km、測距精度±100mでドイツ空軍の代表的接敵用レーダーとなった。その後英軍がアルミ箔を利用した欺瞞紙による電波妨害を本格化させると、妨害を受けにくい波長3.3m(90MHz帯)を使用したリヒテンシュタインSN-2が開発された。独逸軍レーダーに関わる若干の補足 ドイツは戦時中マイクロ波レーダーの研究開発を怠り、1942年(昭和17年)以降は連合国側高周波技術の目覚ましい発達に対し、取り返しの付かない遅れをとってしまった。この時期、ドイツの技術陣は、マイクロ波は物体に照射しても反射波は細いビームとなり散乱し、戻るエネルギーが小さすぎてレーダーには使用出来ないと考えており、本帯域のレーダー開発には消極的であった。加えて、1940年(昭和15年)、ヒットラーは戦争の短期終結を図るため「一年以内に成果を期待できない研究及び開発の一時中止」を決定し、国民の総力を戦場、軍需生産に投入した。 この決定によりレーダーに関わる研究は以後2年間遅滞するが、1942年(昭和17年)になり漸くレーダーが戦局に決定的な役割を果たすことが認識され、各部門の総力を結集し開発を推進することになる。このため、15,000人の科学・電気・機械関連の技術者が兵役から解除され、1943年(昭和18年)1月には米国の科学研究開発局に似た国家科学研究局が設置され、技術開発・生産に関わる統合的な施策を実施するが、官僚機構の弊害に阻まれ十分な成果を上げることが出来なかった。Berlinの開発 1942年(昭和17年)の末、RAFはマイクロ波帯(3,300MHz)レーダーH2Sの開発を完了し、直ちに爆撃機への配備を始め、併せ、対潜哨戒機への転用を進めた。1943年(昭和18年)1月には、H2S を搭載した航空機の先導によりハンブルグを夜間爆撃し、大きな成果を上げ、その有効性を実証した。 1943年(昭和18年)2月3日、ドイツ空軍はロッテルダム近郊に墜落したRAF爆撃機より新種のレーダー(H2S)を回収したが、このレーダーが波長9cmのPPI式マイクロ波レーダーであることを知り驚愕すると共に、事の重大性を認識した。程なくして同系のレーダーを搭載した英米の対潜哨戒機によるUボートへの攻撃が始まり、ドイツ潜水艦隊の被害は深刻なものとなっていった。 当時マイクロ波用レーダーを開発していなかったドイツは、直ちにH2Sに対応する電波探知機の開発を進めると共に、PPI方式の機上用マイクロ波レーダーの開発に着手した。 開発は時間を短縮するため、H2Sを模倣することで行われた。しかし、RAFとドイツ空軍では機体の構造が異なり、また、ドイツの標準真空管の使用や、無線装置の標準規格等の制限があった。このため、1944年(昭和19年)の末テレフンケン社はドイツ初のマイクロ波レーダーBerlinの開発に成功するが、本機はH2Sと回路構成は相似するも、構造は大分異なった物として完成した。Berlin諸元周波数: 3,300MHz(波長9.1cm)繰返周波数: 1500Hzパルス幅: 1μs空中線: 誘電体型2素子2組、指向範囲40°送信機: 送信管LMS-10(8分割マグネトロン)、尖頭出力: 25-30Kw受信機: スーパーヘテロダイン方式、第一周波数変換鉱石検波、局部発振RD2Md(2分割マグネトロン)、中間周波増幅6段中間周波数: 5.6 MHz画像表示: PPI方式高度表示: Aスコープ方式方位測定精度: 3°探索距離: 45kmBerlinの特徴 フロントエンド部 テレフンケン社が開発したPPI式マイクロ波レーダーBerlinは、H2Sを手本とし、送信用マグネトロンLMS-10は、H2Sの陽極8分割型マグネトロンCV-64を模倣して作られた。しかし、励磁はH2Sの永久磁石方式とは異なり、帝国海軍が22号電探で採用した電磁石方式であった。 一方、H2Sの局部発振回路には外部空洞共振器付反射型クライストロンCV-67が使用されていたが、本管の模倣は時間的に困難であったのか、Berlinの局部発振回路には、永久磁石で励磁する小型のマグネトロンRD2Mdが使用された。テレフンケン社がRD2Mdを開発したのは1944年(昭和19年)の後半であり、このため、Berlinは本管の開発成功により完成したとも考えられる。 また、局部発振回路及び鉱石検波式受信周波数変換回路はH2Sの構造を踏襲し、周波数変換回路を送信発振回路と併せ装置し、RD2Mdで構成される局部発振器は外部設置方式であり、遠隔より手動操作で受信同調周波数の補正を行った。 空中線装置 Berlinレーダーの最大の特徴は、空中線装置に誘電体型空中線を使用している事である。本空中線は1/4長ダイポールの先端に、先端が丸い円錐状の誘電体ポリエステルを取り付けた構造で、並列接続した2本の素子2組合により構成されている。技術大国のドイツにとり、H2Sのスキャナ式変型パラボラ型空中線を模倣するのは容易であったと推察されるが、ドイツ技術陣のメンツが本空中線を採用させたものと考えられる。 なお、本誘電体空中線の回転数は400回転/分、6.6回転/秒と非常に高速である。PPI式画像表示管偏向方式 H2Sの残光性PPI画像表示管(CRT)の偏向は静電偏向方式で、回転するスキャナに装置したゴニオメータに鋸歯状波を入力し、出力より90°位相が異なる掃引用2信号を抽出し、PPI表示管の水平、垂直偏向板に加圧して、極座標を構成した。 一方BerlinのPPI表示管の偏向は電磁偏向方式で、電磁偏向コイルに掃引用鋸歯状波を加圧し、之をスキャナと同期して回転させPPI表示をおこなった。Berlinの誘電体空中線の回転数は400回転/分、6.6回転/秒と非常に高速で、偏向コイルも同一の速度で回転する。このため、BerlinのPPI表示管は残光性ではなく、通常のCRTであった可能性もあると考えられる。組写真・資料補足 写真@はKarl Gerhard Buck氏よりご提供頂いたBerlinレーダーの受信機局部発振部である。本発振部は周波数混合回路が装置されたフロントエンドより独立した構成で設置され、遠隔より発振周波数の調整を行う。発振出力は同軸にて混合回路に接続される。 写真Aは局部発振用のテレフンケン社製小型2分割マグネトロンRD2Mdで、励磁は永久磁石により行われる。 写真BはBerlinの送信部発振用マグネトロンLMS-10で、陽極構造は8分割である。本マグネトロンはRAFのH2Sに装備されたCV-64の複製である。 写真CはBerlinの主要構成機材である。指示器の表示管は左が距離測定用のAスコープ、右がPPI画像表示管である。 資料DはBerlinの概念図である。誘電体型空中線、空中線の回転機構及び、本回転機構に連動するPPI表示管の電磁偏向コイルが、判りやすく描かれている。写真提供@ Berlin Local OSC, Photo courtesy of Mr. Karl Gerhard BuckA Magnetron RD2Md, Photo courtesy of Mr. Luca FusariB Magnetron LMS-10, Photo courtesy of Mr. Arthur O. BauyerC Berlin Radar, Photo courtesy of Mr. Arthur O. Bauyer