特殊潜航艇「甲標的」 甲標的は帝国海軍が開発した攻撃用小型特殊潜行艇の一種類で、本艇の研究は1931年(昭和6年)より始められた。当初特潜は艦隊決戦時の前衛戦力として立案・開発されたが、航空機の発達によりこの計画は無意味となり、その後、用途は泊地に対する潜入攻撃へと変更された。 甲標的は全長が23.9m、全幅は1.85m、排水量は46tで、推進機は蓄電池で駆動する600馬力の電動機である。本艇の水中航続距離は6ノットで8.4浬(15km)、水上航続距離は9ノットで15.8海里(23km)、武装は97式酸素魚雷2本である。 なお、甲標的には各種があるが、真珠湾やシドニー湾、マダガスカル島デイエゴ・スアレス港攻撃に投入されたのは甲型である。真珠湾攻撃と甲標的 1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃作戦に際し、甲標的甲型5艇が投入されたが、搭載潜水艦及び各艇の搭乗員は以下である。◎ 伊号第16潜水艦 横山正治中尉・上田定二等兵曹◎ 伊号第18潜水艦 古野繁實中尉・横山薫範一等兵曹◎ 伊号第20潜水艦 廣尾彰少尉・片山義雄二等兵曹◎ 伊号第22潜水艦 岩佐直治大尉・佐々木直吉一等兵曹◎ 伊号第24潜水艦 酒巻和男少尉・稲垣清二等兵曹 本作戦に参加した甲標的は真珠湾特別攻撃隊仕様であり、艇首前方に突出た特徴のある防潜網突破用のカッターを備えていた。このため、その形状が後に、消息を絶った真珠湾攻撃艇の発見、確定に役立つ事になった。甲標的5艇の消息 現地日時、1941年(昭和16年)12月7日の00時40分から03時30分にかけ、真珠湾の沖合(5-13浬)に展開した5隻の伊号潜水艦より、甲標的5艇が真珠湾軍港に向け発進した。以後各艇に関わる行動や戦闘状況、最期については必ずしもハッキリしないが、現在入手可能な資料を基に判断すると、5艇の消息は大凡以下の様なものであった。 酒巻艇 本艇は攻撃日の翌日、真珠湾より約75km東方のベローズ飛行場近くの海岸に漂着した。酒巻艇はジャイロコンパスの故障を承知で強行出撃したが、艇位を失い湾口に潜入することが出来ず珊瑚礁に座礁した。離脱後再起を期し予定された母艦の収容海域に移動中不運にも再び座礁し、行動不能となった。自爆装置をセット後、酒巻和男少尉と稲垣清二等兵曹は艇を脱出するが、酒巻少尉は意識を失い海岸で捕虜となり、稲垣二等兵曹は行方不明となった。しかし、自爆装置は起動せず、酒巻艇は漂流後鹵獲された。本艇は米国民の戰意昂揚と戰時国債募集の宣伝道具として米各地を引き回されたが、現在はテキサス州の戰争関連博物館に展示されているとの事である。 岩佐艇 本艇は真珠湾突入に成功したが、フォード島の西水道で駆逐艦の攻撃により撃沈され、その後引揚げられた。しかし、岩佐艇は損傷が激しく、このためか、丁重な慰霊の後、搭乗員2名を艇内に残したまま埋設された。この折発見された袖章(第一種軍裝)が海軍大尉のものであったことから、本艇は岩佐艇と確認され、袖章は戦後になり、遺族に返還された。 甲標的の発見と引き揚げ 残る3艇の内の1艇が、1960年(昭和35年)7月に現在のホノルル国際空港東岸近くの珊瑚礁外側、水深約40mの海底で発見され引揚げられた。この甲標的は魚雷を装填した状態で、艇尾には爆雷によるとみられる軽微な損傷があった。本艇のハッチは固定されておらず、艇内部には遺骨や搭乗員の確定につながる遺留品はなかった。米国より返還され、現在江田島の海上自衛隊第一術科学校に展示されている甲標的が本艇と考えられている。 HURLによる発見 2002年(平成14年) 8月29日、ハワイ大学海底探査研究所HURL(Hawaii Undersea Research Laboratory)の小型潜水艇2艇が真珠湾の湾口に於いて潜水訓練中、深度400mの海底で甲標的1艇を発見した。本艇は魚雷2本を装備しており、艇首の形状から真珠湾攻撃型と確定された。発見艇の司令塔下部には直撃弾を受けたと考えられる穴が空いており、このため、真珠湾攻撃の当日、1941年(昭和16年)12月7日(現地日時)の06時45分に、駆逐艦Ward(ワード)の砲撃により湾口近くで撃沈された一艇と考えられるが、何れの搭乗艇であるのかは不明である。 NHKスペシャルと最後の甲標的 2009年(平成21年)12月にNHKスペシャルで、近年湾外で発見された甲標的を題材とした「真珠湾の謎・悲劇の特殊潜航艇」が放送された。この甲標的は艇首の形状から真珠湾攻撃型と考えられるが、艇体は三つに分解され、吊上用の鎖が巻かれており、明らかに海洋投棄をされた状態で、魚雷収容筒は空であった。この艇は湾内への突入に成功したと考えられている横山艇と推測されるが、何処で鹵獲されたかについては全く不明である。「甲標的」搭載無線電信機に関わる資料 上記の様に、甲標的甲型は開戦間もなくして米軍に鹵獲されたが、搭載無線機材に関わる情報は何故か皆無で、小生が調査を始めた数十年前、入手出来た資料は大凡以下の様な誠に僅かなものであった。◎日本無線史第10巻「海軍無線史」 本史には甲標的の無線機材について「甲標的の通信兵装は、特殊の小型短波送信機を1組と、約1mの短波檣を装備し任務報告を打電することだけを要求された・・・」とのみ記されている。◎日本無線史第11巻「無線機器製造技術史」 本史の沖電気株式会社の項には「・・・96式空2号無線電信機は13年頃から試作を始め、15年頃は空3号と共に量産されていた。又空2号は据置型として14年頃より改造に着手され、15台を製作したが、これは潜行艇用にS金物と称し取り付けられた」との記述がある。◎海軍電気技術史 「潜水艦関係の整備」の項に以下の記述があり、その内容は日本無線史第10巻と一致する。 (1)「甲標的の通信兵装は、特殊の小型短波送信機1組と、約1米の短波檣を装備し任務報告を打電することだけを要求された。この短波檣は艦政本部第3部に於いて最も苦労したものの一つで5-60浬の通信能力の要求に対し、空中線高と使用波長の関係上殆ど自信のないものであった。」 (2)「改定無線兵装標準(昭和18年より逐次実施)」より、「甲標的装備機材、機上用空2号又は3号、機上用隊内無線電話機」◎石川孝太郎著「潜水艦伊 16号通信兵の日誌」1992年(平成4年)11月・草思社 本書は甲標的横山艇を搭載し真珠湾攻撃に参加した伊16号の電信員であった石川兵曹長の日記で、無線を使った特潜との夜間会合訓練等、貴重な記述がある。関連資料纏め 上記の資料他により、甲標的搭載無線機材は96式空2号無線電信機に類似した構造で、設置は据置式であり、また、空中線は通常型潜水艦と同様に、艇内より司令塔上部に繰り出す全長1m程の棒型であった事等が確認された。しかし、これらの資料により該当無線機材の確定を行う事は到底叶わず、更なる情報が必要であった。掲示資料補足 掲示組写真@は真珠湾の東方約75km、ベローズ飛行場近くの海岸に漂着した酒巻艇である。 写真Aは米国海軍による酒巻艇の調査状況で、司令塔頂部に装置された空中線ロッドが繰り出されている。 写真Bは1960年(昭和35年)7月にホノルル国際空港東岸近くの珊瑚礁外側で発見され、引揚げられ甲標的である。 写真Cは江田島海上自衛隊第一術科学校に展示されている甲標的である。本艇は写真Bの甲標的と考えられる。