先日、終戦当日の1945年(昭和20年)8月15日に千葉県茂原に墜落した零戦の探索を続ける人物の話が、NHK千葉の特集として放送された。知人が当事者に探索用の地雷探知機を貸したとのことで聴視したが、内容は毎年この時期になると製作、放送される簡易な戦争関連トピックスで、探索に関しては、殆ど実態の無い物であった。 ところで、番組では触れられていなかったが、8月15日の午前中、茂原上空周辺では7機のゼロ戦が撃墜され、その中の一機に搭乗されていたパイロットが後に弁護士となられ、日本アマチュア無線連盟の監事を務められた故本間忠彦先生(JA1UE)である。 本間先生は当時茂原航空隊に所属する零戦の操縦員(中尉)で、8月15日の早朝に茂原上空で侵入する米英艦載機を迎撃し撃墜されたが、この戦闘では先生の僚機も撃墜され、バイロットは死亡した。このため、当日茂原周辺には複数の零戦が墜落したと考えられる。本間忠彦中尉 本間先生は早稲田大学法学部在学中、海軍13期予備学生に志願、訓練終了後各地の航空戦闘部隊を転戦し、後に茂原基地第252航空隊・戦闘第304飛行隊の中尉(後に大尉)として、終戦当日迄零戦52型にて果敢に戦われた。 戦後は早稲田大学に復学し大学院に進まれ、後に同校及び関東学院大学の教授を勤められ、退任後は弁護士として活躍の傍ら、アマチュア無線家(JA1UE)として日本アマチュア無線連盟の監事を長年にわたり勤められた。 本間先生は学生の頃より無線通信技術に精通し、乗機に搭載されていた3式空1号無線電話機に対する理解も深く、装置の整備にはご自身も参加し、万全を尽くされていたとの事である。 当館が日頃御協力を頂いている日比野正男氏は関東学院の卒業で、在学中はアマチュア無線クラブに所属されていたが、その顧問が本間忠彦先生であった。日比野氏は先生が一度だけ、3式空1号無線電話機の話をされた事を記憶されている。しかし、それ以外に、先生が戦争に関わる話をされた事は無かったそうである。 当館は本間先生に資料提供他多岐に渡り御協力を頂いたが、この間、やはり先生が率先して零戦パイロットとしての経験をお話になる事は無かった。先の戦争に於いて本間先生は期せずして先兵となられ、誠に希有な体験をなされた。しかし、戦争に対する本間先生の態度は誠に慎み深く、僅かに伺うことの出来たお話にも、常に自戒が込められていた。本間中尉最後の空戦 昭和20年8月15日0540、日高盛康少佐指揮の海軍茂原基地第252航空隊・戦闘第304飛行隊は関東地域に侵入した敵艦載機群を迎撃するため、零戦52型15機で出撃し、本間中尉もその一翼を担った。 本間機は高度6,000mで南東より侵入する敵機(米第3艦隊艦載機群)を迎撃し、乱戦の中敵艦爆に命中弾を与えた。しかし、射撃後の退避飛行中、右舷下部より英軍機と思われる戦闘機の攻撃を受け被弾、猛火に顔面を焼かれつつも落下傘にて脱出、地上で農民に助けられ、辛くも生還した。 この戦闘で304飛行隊が失った零戦は7機で、内5名が戦死した。 なお、戦後の調査により、本間機を撃墜したのは、第3艦隊にただ一隻加わっていた英国海軍の航空母艦Indefatigableの艦載機、Seafire(Spitfireの海軍型)であったことが判明している。また、本間中尉の空戦については「8月15日の空」(文芸春秋)他で紹介されている。