先年8月、昭和20年(1945年)8月15日の終戦当日、千葉県茂原に墜落した零戦の探索を続ける人物の話が、NHK千葉の特集として放送された。探索は知人が提供した地雷探知機により行われたが、この調査で特段の成果は得られなかった。しかし、先日、墜落現場で発掘作業を含む本格的な再調査が行われ、掲示写真にある栄発動機を含む多数の機体残骸が回収された。この模様はNHKの全国ニュース他で紹介された為、多くの方が視聴したと考えられる。 ところで、昭和20年8月15日の午前中、茂原周辺には少なくとも二機のゼロ戦が墜落した。その一機に搭乗されていたパイロットが後に弁護士となられ、日本アマチュア無線連盟の監事を務められた故本間忠彦先生(JA1UE)である。しかし、今回発掘調査が行われた機体は、当時の目撃証言他から本間機には該当しない。 事務局員はいつの日か、本間機が発見され、その発掘調査に参加する事を、心より願っている。本間中尉最後の空戦 昭和20年8月15日0540、日高盛康少佐指揮の海軍茂原基地第252航空隊・戦闘第304飛行隊は関東地域に侵入した敵艦載機群を迎撃するため、零戦52型15機で出撃し、本間中尉もその一翼を担っていた。 本間機は高度6,000mで南東より侵入する敵機(米第3艦隊艦載機群)を迎撃し、乱戦の中敵艦爆に命中弾を与えた。しかし、射撃後の退避飛行中、右舷下部より英軍機と思われる戦闘機の攻撃を受け被弾、猛火に顔面を焼かれつつも落下傘にて脱出、地上で農民に助けられ、辛くも生還した。戦後の調査により、本間機を撃墜したのは、第3艦隊にただ一隻加わっていた英国海軍の航空母艦Indefatigableの艦載機、Seafire(Spitfireの海軍型)であったことが判明ししている。 この戦闘で304飛行隊が失った零戦は7機で、内5名が戦死した。 なお、本間中尉の空戦については「8月15日の空」(文芸春秋)他で詳しく紹介されている。掲示組写真補足 組写真写@Aは回収された栄エンジンで、型式は「栄31甲」である。サビもなく状態の良さに驚かされた。 写真Bは13粍機銃の薬莢とリンクである。薬莢は墜落時の炎上により爆発し、雷管も破裂して飛び出し、無くなっている。火災は一日半続いたとの事である。 掲示写真Cの左は落下傘の縛帯を構成するD環である。中央は油冷却器シャッター部(操縦席計器板右下)で、右端は主輪ホイルの破片である。