帝国海軍は大戦の当初より水上警戒用マイクロ波帯レーダーである2号電波探信儀2型(22号)を兵器化していた。しかし、この電探は受信機が超再生検波方式のため、調整が極めて困難で、動作は不安定であり、兵器としての実用性は低かった。 マイクロ波帯用の電波探知機を開発するには、本帯域で効率よく動作する検波管や検波器が必要であるが、当時海軍技術研究所はこの何れをも所持していなかった。このため、スーパーヘテロダイン式の22号電探用受信機の開発も叶わず、マイクロ波帯用電波探知機の開発が行えるような状況ではなかった。これらの問題が解決されるのは、当時海軍術研究所の菊池技師門下として22号系電探の開発に携わっていた霜田光一先生(東京大学理学部大学院特別研究生)がマイクロ波用鉱石検波器を開発された後のことであり、このため、以下では先ず、帝国海軍に於けるマイクロ波帯レーダーの開発に関わる経緯について概観する。(追加資料012参照)22号系電波探信儀の開発 1941年(昭和16年)8月2日、電波探信儀の開発に関わる海軍大臣訓令を受け、海軍技術研究所電気研究部は日本無線と協力しマイクロ波電探100号の試作研究を始めた。当時技研電気研究部は日本無線との協同研究により、波長10cm(3,000MHz)で連続出力500wの水冷式マグネトロンM-3の開発に成功しており、マイクロ波の発振管については世界的レベルにあった。このため、送信管にはM-3の量産型M-312の使用が決まったが、受信機や空中線系を含む高周波回路に関わる技術は未だ確立されておらず、特に受信機の検波方式は問題であった。メートル波帯の対空監視用1号電波探信儀1型(11号)を例に取るまでもなく、当時受信機の構成はスーパーへテロダイン方式が一般的であったが、周波数変換を行う検波管、検波器の問題が解決されず、結局超短波無線電話機等で海軍が好んで用いた超再生検波方式が採用されることになった。 間もなくして出力20mwの受信機用マグネトロンM60が開発され、この小型磁電管を検波管とした他励式超再生受信機が完成した。この受信機は動作がきわめて不安定であったが、調整次第では高感度の受信ができ、また、他に選択の余地もないことから研究は進められ、試作機103号が完成した。本電探は送受信機が個別の電磁ホーンを使用し、目標の探索は装置全体を回転させて行う大がかりなもので、波形表示はAスコープ方式であった。超再生方式の受信機は調整が非常に困難であり、技研担当員により漸く反射波を得られるような状況であったが、調整が巧くいくと陸上で35km程度の探知が可能であり、このため、仮称2号電波探信儀2型として兵器化が模索された。22号電探の導入 1942年(昭和17年)5月、ミッドウェーイ、アリューシャン進行作戦を控え、戦艦日向に完成間もない22号電探を、戦艦伊勢には試作が完了したメートル波帯の2号電波探信儀1型(21号)が仮装備され各種の探索実験が行われた。その結果、伊勢に搭載した21号は航空機単機に対し55km、戦艦日向に対し20kmの探知能力を示したが、日向に搭載の22号は戦艦伊勢に対し35kmの探知能力を示すも、対空目標に対しては零という成績であった。 この実験結果を踏まえ22号は撤去すべきとの結論であったが、日向艦長松田千秋大佐他の援護もあり、本電探は日向に搭載されたまま、技研技術者と共に進行作戦に出撃した。本来22号は水上警戒用に開発された電探であり、対空警戒能力を21号と比べることに意味はない。22号電探は対水上目標探知能力により評価されるべきであったが、動作が不安定な受信機は用兵側の理解を得られぬ致命的な欠陥であり、不合理な決定の要因になったと考えられる。 ミッドウェーイ攻略作戦では主力部隊警戒隊として行動した日向の22号電探が、闇夜、濃霧等の狭視界時に艦隊の集結、隊形保持に大きく寄与し、その有効性を示すことになった。この結果、辛うじて22号の兵器化が決定し、安定性向上を条件に駆潜艇、海防艦等に対する潜水艦警戒用レーダーとして約100台の整備が決定された。 量産型は送信機、受信機、指示器等各構成機材が独立した構造に改められ、空中線は円形導波管接続によるホーン型回転式に改修され、空中線の回転による目標の探索が可能となった。しかし、受信機の動作不良は一向に改善されず、用兵側の不評は強烈なものであった。開発組織の改革 1942-3年、水上警戒用レーダーの本命である22号電探は超再生式受信機の不具合から足踏み状態となり、研究は閉塞状態に陥った。この間ドイツより「ロッテルダム装置(H2S)」の情報が得られ、英空軍は波長9cm(3,300MHz)を使用した爆撃用PPI式レーダーを使用し、「受信機は局部発振にクライストロンを、第1検波に鉱石を使用したスーパーヘテロダイソ方式である」との重要な情報がもたらされたが、鉱石に偏見を持つ技術研究所員は特別な関心を示さなかった。 1942年の後半よりソロモン方面の戦局は重大化し、航空戦に加えて、水上艦艇による激しい夜間戦闘が繰り返された。この戦闘で敵艦艇は対水上射撃管制用レーダーを活用し、夜戦を得意とした帝国海軍の艦隊行動は徐々に制約されていった。この時期になると、用兵側から対水上用電探に対する要望が高まり、帝国海軍に於ける電波兵器開発の遅れが鮮明になっていった。 1943年(昭和18年)7月、この状況を打破し電波兵器の開発を促進するため、海軍技術研究所に電波研究部が設置された。当時海軍における通信、電波兵器行政の最高責任者であった名和武技術少将は、組織上は格下となる研究部長の職に自ら就き、既に嘱託であった放送協会の高柳健次郎博士を少将待遇の技師で、大阪大学の菊池正士教授を奏任官待遇の技師として向かえるなど、各分野の人材を集結し電波兵器の開発を強力に推進する施策を実行した。22号電探・受信機の改良 電波研究部の発足により、22号電探は根本的に再検証されることになった。本電探の動作不良は超再生式受信機にあることは明白であったが、これに代わる受信機をどのような方式にするかが問題であった。しかし、適当な検波管、検波器が無いため、結局電磁管M60をオートダイン検波管とするスーパーヘテロダイン方式(以下オートダイン式と表記)が採用されることになり、1943年末に試作機が完成し実験が始められた。この受信機は超再生方式に比べ遙かに安定しており実用の目処がついたが、調整が難しく、感度は著しく低下した。受信機の改良により22号電探は小康を得たが、調整に関わる問題は改善されておらず、また、感度不良が新たな問題として提起され、抜本な対策が必要なことは明らかであった。 これより先、菊池正士技師の指導でマイクロ波の検波に適した鉱石の研究を行っていた東大理学部大学院生霜田光一研究生は、パイライト(黄鉄鉱)の結晶による検波器の開発に成功していた。当時霜田研究生は22号電探の派生系である31号射撃用電探の開発に加わっており、1944年3月に本研究目的で、第一検波に自らが開発した鉱石検波器を使用したスーパーへテロダイン式受信機を試作し、パルス波の受信に成功していた。 1944年(昭和19年)7月24日、「あ号作戦」の敗北によりサイパン島が陥落すると大本営は南西諸島、台湾以南の敵を迎撃する「捷(しょう)号作戦」の発動を決定し、海軍は最後の艦隊決戦となる捷1号作戦の準備を始めた。本作戦には水上射撃用電探は不可欠であったが31号の開発は進まず、このため、電波研究部は応急対策として、霜田研究生が開発した鉱石検波器を第一検波に使用した22号電探・受信機のスーパーへテロダイン化を企画した。改造により既設22号の安定性と操作性を高め、これに増力式空中線操縦装置及び精密測距装置を付加し、準射撃用電探の速成を模索したのである。22号電探・受信機のスーパーヘテロダイン化 8月末、技術研究所三鷹分室で既設のオートダイン式受信機を、第1検波が鉱石のスーパーヘテロダイン方式に改修する実験が行われ、結果、きわめて安定した受信機に改良出来ることが確認された。22号のオートダイン式受信機は磁電管M60がオートダイン検波・局部発振を兼任し、検波出力を14MHzの中間周波で4段増幅する構造であったが、従来の検波・発振回路に鉱石検波回路を付加すると、第1検波が鉱石、局部発振がM60のスーパーヘテロダイン式受信機へ簡単に改造することが出来る。早速既存受信機のスーパー化が決定され、改修作業が始められた。改造は高周波部に鉱石検波回路部を付加し、中間周波増幅段のゲイン不足を補うため、局発管M60の横に中間周波増幅初段回路を追加する簡易なものであった。 当時捷1号作戦に備え艦隊の主力はシンガポール方面に集結していたが、担当部門は要員と資材を急派し、現地工廠職員と共に22号電探の改修を行った。遅きに失したが、本工事により艦隊は最後の洋上決戦を目前に、漸く実戦的な水上監視用レーダーを装備し、作戦中戦艦群は付加装置による電探射撃を行うことが出来た。写真補足とTR管 掲示は401型潜水艦に搭載された22号電探である。本機は最後期型で受信機はスーパーヘテロダイン方式、空中線は送受信兼用である。装置下段左が送信機、上段が受信機で、送信機より円形導波管が上部(空中線)に延びているが、導波管は途中で分岐され、受信機に接続されている。送信機の右側は送信機管制機、受信機の右側は波形観測用の指示機(Aスコープ)である。 円形導波管より分岐され受信機に接続される導波管の形状は角型で、受信機接続部で円形構造に戻されている。角型の導波管部には筒状の突起物が二個装置されているが、これは送受信切替用のTR放電管と考えられる。 ところで、装置されたTR管にはコードが接続されており、このため、本管は従来の電探に使用された1号放電管とは異なり、「Keep Alive」方式の放電管ではないかと考えられる。この構造の放電管は、管内に電圧を加え常時微弱な放電電流を流し、放電間隙に少量のイオンを供給する。これにより、送信パルスが加圧されると放電が急速に立上がり、受信機側に漏洩する高周波エネルギーを完全に遮断することが出来る。「Keep Alive」方式の放電管は連合国側が開発した技術であるが、技術研究所は鹵獲資料を基に本管を開発したものと推測される。 なお、「Keep Alive」方式の放電管については、霜田光一先生の論文「戦時中の米軍レーダーの調査」の中でも述べられている。 下記URLに本項に関連した追加資料を掲示した。http://kenyamamoto.com/yokohamaradiomuseum/2011oct27.html写真出典: USNA