(本資料は2011年12月に掲示を行なったが、まもなくリンク切れとなる。このため記録を残すため再掲示を行なった。) 先般、当館のHPに東京大学名誉教授である霜田光一先生よりご寄稿頂いた論文2稿を掲載した。この内「電波探知機・電波探信儀用鉱石検波器の研究」は大戦後期に先生が開発されたマイクロ波用鉱石検波器について纏められたもので、本鉱石により帝国海軍はマイクロ波帯用電波探知機の開発に成功し、また、不振を極めていた22号系水上警戒用レーダー・受信機のスーパーヘテロダイン化に成功した。 ところで、大戦中帝国海軍は各種の電波探知機(逆探)を兵器化したが、これらの幾つかは技術先進国であった同盟国ドイツより入手した機材や情報を基に開発されたと考えられる。また、ドイツに於ける各種電波探知機の開発は、英国のレーダー開発と不可分な関係にある。このため、霜田論文の掲載を機に、帝国海軍が開発した主要電波探知機について、英国やドイツに於ける電波兵器開発の経緯と併せ纏めてみた。英国に於けるASVレーダーの開発 1934年、ヒットラーを国家元首とする領土拡張的な軍事国家がドイツに誕生し、英国政府はその将来を危惧することになった。第一次大戦に於いて英国はドイツ空軍にロンドンを爆撃され、また、潜水艦に補給路を跳梁された苦い経験があった。このため、英国はドイツとの戦争を予測して、既存の技術による対空監視用レーダーの開発を1936年より始め、1939年9月の開戦時には海岸線の殆どを網羅する対空監視網を完成させていたが、本レーダー網は世界初の対空早期警戒システムであり、後にChain Home(CH)と呼ばれた。1940年7月から10月の英国本土上空に於けるドイツ空軍との戦い、所謂「Battle of Britain」では、CHで敵侵入機の早期捕捉や迎撃機の効率的な運用を行い、劣勢な空軍力にも関わらず勝利した。 また、ドイツ海軍のUボート対策としては航空機搭載型の海上探索用レーダーASV(Air to Surface Vessel Radar)の開発を1937年の中頃より始め、1939年末には原型となるASV Mark Tを完成させ、英空軍(RAF)沿岸防備航空隊への配備を始めた。メートル波帯レーダーASV Mk.T ASV Mk.Tは運用周波数が240MHz(後に200MHzに変更)のメートル波帯レーダーで、送信管はWestern Electric社製の三極管316A二本によるP.P.構成で送信尖頭出力は2Kw、受信機は高周波増幅2段、中間周波増幅3段、低周波増幅2段構成のスーパーヘテロダイン方式である。標的の測定には等感度方式が採用され、このため送信用として半波長ダイポール型空中線が機首に、受信用は同型空中線が左右の両翼に各々装置され、画像表示はAスコープ方式であった。 ASV Mk.Tは故障が多く、動作も不安定で信頼性に欠けたが、1,000ton前後の中型艦船を約20km、海岸線を約90kmの距離から探知することが出来た。しかし、潜水艦に対してはほとんど効果がなく、このため主に視界不良時や夜間の航法支援装置として使用された。 潜水艦探知能力を向上させるため前面空中線の改良に加え、sideways-looking system(側面探索装置)の開発が進められた。本式は大型航空機の胴体後部に送信用として4本のマストを直列に立て、ここに水平ダイポール10基よりなる多素子空中線を装備すると共に、受信用として同型の空中線を機体の両側面に配置したものである。この空中線の指向性は機体の両側面方向であるため、当初の哨戒は利得の大きい本空中線により行い、標的発見後は前部の空中線に切替え、等感度測定法によりホーミングを行った。ASV Mk.Uの導入(追加資料001参照) 1940年にMk.Tの改良型であるASV Mk.Uが導入された。本機の送信管にはパルス用発振管VT90/CV1090が採用され、P.P.構成で尖頭出力は7Kwに増大した。運用周波数は176MHzに変更され、空中線系は若干大型化したが、装置の動作は安定した。空中線は前方探索用の八木型と「側面探査装置」で構成され、前方送信用4素子八木は機首に、等感度測定用の受信用6素子八木は各々が両主翼の先端部に若干外側に向けて装置された。本機の性能はMk.Tに比べ大分向上し、中型艦艇の探知距離は約70kmに拡大し、潜水艦の発見も可能となった。Mk.Uの導入により昼間に於けるUボートの発見率は20%も向上し、精度は低いながらもサーチライト(Leigh Light)を併用しての夜間攻撃も可能となり、英軍のASVはドイツ潜水艦隊にとり脅威となっていった。センチ波(マイクロ波)帯レーダー開発の端緒 RAFの技術陣は1939年以前より、航空機搭載用レーダーには戦闘機の機首にも装備が可能な小型で指向性の強い空中線が必要と考えていた。この実現には従来使用していたメートル波ではなく、波長10cm(3,000MHz)付近のマイクロ波の使用が不可欠であったが、当時この要求を満たす有効な発振管はなかった。 1940年の初め、バーミンガム大学のJ.T. RandallとH.A.H. Bootが陽極の多分割により波長9cm(3,300MHz)で、連続出力が400wの空洞共振型マグネトロンの開発に成功した。これを受け、英国は直ちにマイクロ波帯レーダーの研究を進め、艦艇搭載海上探索用、航法・爆撃用(H2S)、夜間戦闘機接敵用(AI)、航空機搭載海上探索用(ASV)等の各種PPI表示式レーダーを次々に開発していった。マイクロ帯ASVの開発(追加資料002参照) 洋上にある潜水艦のような小型艦艇の探知には、より解像度の高いマイクロ波帯レーダーが必要であり、メートル波仕様には限界がある。1940年2月にマイクロ波帯レーダーの本格的な研究が始まり、6月には陽極8分割の金属封印型マグネトロンCV-64の生産が開始された。 最初に開発されたレーダーは艦艇搭載型で、プロトタイプは1941年3月に完成し、コルベット艦に搭載された。本艦は同年11月16日にジブラルタル海域でドイツ潜水艦U-433を発見しこれを撃沈、マイクロ波レーダーの有効性を実証した。このレーダーはType 271として量産され、1942年5月までに200隻以上の艦艇に配備された。 航空機用接敵レーダーであるAI(Airborne Interception)は1942年3月に試作機が完成し、AI Mk.Zとして導入され、1942年8月には量産型としてAI Mk.[が完成した。 ASVの開発はAIに比べ遅く、潜水艦に対する効果確認試験は1941年4月より実施されたが、実際の飛行試験は12月以降のことであり、1942年の夏になり漸く生産に関わる準備が始まった。しかし、1942年9月30日、RAFは爆撃司令部が進めていた航法・爆撃用の地表探索レーダーH2S の製造を優先させるため、ASVの開発計画を一時保留した。 RAFは1942年1月,H2Sの実験装置で最初の飛行試験を行い、高度2,000mで鮮明な地表図をブラウン管上に、360°で表示することに成功した。3月17日にはより実用的な装置をハリファックス爆撃機に搭載して実験が行われ、実用化の目処が立った。この結果を受け、7月15日に首相官邸で行われた上級会議でH2Sの導入が決定され、チャーチル首相は早速10月半ばまでに同型のレーダー200台を生産、導入するよう空軍側に強く要望した。 この時期、撃墜された英軍爆撃機よりH2Sがドイツ側に鹵獲されることを考慮して、送信管にマグネトロン、クライストロンの何れを使用するかが問題となった。クライストロンの出力はマグネトロンに比べ十分ではなかったが、マグネトロンを使用した場合、早晩その最新技術をドイツは入手することになる。しかし、装置の性能が優先され 送信管にはマグネトロンを使用することが決定された。 H2Sの開発はスキャナの不具合により当初の計画より二ヶ月遅れ、1942年の年末に完了し、まず24機のハリファックス、スターリング爆撃機に搭載された。1943年1月深夜,H2S を搭載した爆撃機の先導により、100機のランカスターがハンブルグ市を爆撃して大きな成果を上げ、その優秀さが証明された。しかし、早くも2月3日、本機を搭載した爆撃機がオランダのロッテルダムで撃墜され、H2S は独空軍に回収されることになった。以後、H2S系レーダーは枢軸国の間で「ロッテルダム装置」と呼ばれることになる。 ASVに優先して開発されたH2S Mk. Iは非常に優秀なレーダーであった。元来機上より海上を探索するASVと地表を探索するH2Sは同類のレーダーであり、H2Sは開発中であったASVに大きな影響を与えることになった。H2Sは高度6,000mで飛行する爆撃機用レーダーであるが、対潜哨戒機は高度600mで飛行する。このため、特に空中線系が再設計され、前方60°スキャン型空中線が開発された。本機は1943年の初頭に、よりH2Sに類似したASV Mk.Vとして完成し、沿岸防備航空隊への配備が始まった。 最初に導入されたASV Mk.Vはウエリントン爆撃機に装備された。1943年3月1日より本機によるビスケー湾の対潜哨戒活動が開始され、 3月18日には発見したUボートに対する最初の攻撃が行われた。ASV Mk.Vに習熟した航空隊は5月までにビスケー湾を水上航行する殆どのUボートを発見出来るようになり、効果的な攻撃を行った。 ASV Mk.Vの導入によりUボートの発見率は劇的に改善し、この時期艦船の損失は1ヶ月400,000tonから100,000tonにまで減少した。 一方、ドイツ海軍は4月、5月の二ヶ月で56隻のUボートを失い、潜水艦隊司令部はその原因を巡り混乱していた。RADLAB(Radiation Laboratory)の活動 戦前より米英両国は軍事に関わる技術情報の相互交換教協定を結んでおり、レーダーに関わる情報も両国の研究機関で共有されていた。1940年9月、英国の技術使節団がワシントンを訪問した際、大統領府の国家防衛研究委員会との協議で米国に対しマイクロ波による迎撃用及び対空射撃管制用レーダーの開発を提案し、開発に成功したマグネトロン(波長9cm)のプロトタイプを設計情報と共に提供した。この勧告に従い、マイクロウエーブ委員会は大学の物理学者を中心とするレーダー開発の研究所を設立することを決定し、その運営管理はMIT(Massachusetts Institute of Technology)に委託されRADLABと命名された新研究所が発足した。 当時米国はメートル波、デシメートル波による基本的な警戒、射撃管制用レーダーの開発を完了していたが、マイクロ波帯レーダーはまだ未開発であった。しかし、以後RADLABに於ける組織的な研究の成果はめざましく、1942年の後半になると波長6cm(5,000MHz)、3cm(10,000MHz)、の新型マグネトロン及びその周辺技術が次々と開発されていった。1944年には波長3cmの地表探索レーダーH2Xが実用化され、本機の完成度は非常に高いものであった。1942年12月、霜田光一先生は有明海に墜落したB-29より回収されたWestern Electric社製の航法・爆撃用レーダーAN/APQ13の技術調査に参加されたが、本機はH2Xの類型であり、この型のレーダーは戦後20年近くも各分野で使い続けられた傑作機であった。写真補足 ASV Mk.Uを装備した対潜哨戒機B24 Liberator。本機は機体上部及び両側面に「側面探査装置」を、前方探索・ホーミング用として機首に送信用4素子八木、左右の主翼に各受信用6素子八木を装備している。また、前部胴体下部のラドーム内にはASV Mk.Vのスキャナを搭載していると考えられる。 下記URLに本項に関連した追加資料を掲示した。http://kenyamamoto.com/yokohamaradiomuseum/2011oct27.html写真出典: Reflections on the Early History of Airborne Radar(Dave Trojan)