コロナ禍の中、お盆が終わった。当家(事務局員)の菩提所は鎌倉極楽寺の成就院であるが、今年はお施餓鬼他全ての仏事が中止となり、塔婆の作成もなかった。成就院は極楽寺坂切り通しに位置しているが、ここは三方を山に囲まれた鎌倉に入るために、幕府が開いた鎌倉七口(七切り通し)の一つで、源義経はこの道を通り平家討伐に向かった。 今日この切り通しは深く削り取られた一般道で、成就院は市内より見て、左上部に位置するが、鎌倉時代の切り通しは、現在の成就院の高さの小道であったと考えられている。このため、成就院はかなりの高所で、山門からは鎌倉の海岸を一望することが出来、この場所は鎌倉で事務局員が最も好きな場所の一つである。しかし、コロナ禍のため今年も海の家は休止で、お盆の時期にもかかわらず浜は閑散としていた。由比ヶ浜海岸とセスナ 昭和20年代の中頃より30年代に掛け、夏のこの時期になると鎌倉の海岸には多くの海水浴客が押し寄せ、日曜日には数万の人々により砂浜は埋め尽くされた。事務局員も殆ど毎日の様に浜に行ったが、時々成就院の参道を経由し、山門より海岸を眺めることがあった。当時の浜の喧噪は凄まじく、人々のざわめきやスピーカーの音が入り乱れ、成就院の山門前にも届き、事務局員はそれを眺め、聞き入っていた。 ところで、今日では考えられない事ではあるが、この時期、特に日曜日には、複数のセスナが代わる代わる超低空で東より海岸上空に飛来し、販売促進品であるキャラメルや薬、文房具、セメダイン等をこれでもかと言うほど海水浴客の頭上に降らせた。 模型少年であった事務局員にとり、頭上より降り注ぐセメダインは正に天与の恵みで、飛行機を追うようにして拾い集めていた。また、時折お菓子の入った袋が小さなパラシュートで蒔かれることもあり、この時はもう大変な騒ぎで、各所で大人と子供が棒を持ち凄まじい争奪戦を繰りひろげていた。 頭上を通過する小型機は、今思い出しても恐ろしいほどの超低空飛行であったが、当時は航空法も十分には機能せず、ほぼ無法状態にあったと考えられる。販促品は飛行機の下部に取り付けられた筒より蒔かれていたが、内部には如雨露が装置され、乗員がせっせと品物を投げ込んでいたはずである。 これら小型飛行機は藤沢飛行場(注)を基地として、逗子海岸、鎌倉材木座海岸、江ノ島海岸を一筆描きに飛行し、販売促進品をばら撒いていたと考えられるが、時代背景からして、パイロット達は先の戦争の生き残りと推察され、昔取った杵柄(操縦桿)で、平和な空を、ここぞとばかりに謳歌していたに違いない。掲示組み写真補足 組み写真@は成就院の山門前より見た鎌倉の海岸である。お盆であるが、浜は閑散としていた。 写真Aは昭和30年代に販売されたソリッドモデルで、セメダインが付属している。セスナがばら撒いていたセメダインは販促品でもっと小さかった。 写真Bは戦前、戦中を含む当時の模型用接着剤各種である。 写真Cは昭和30年代に活躍したセメダイン号である。事務局員は「鎌倉カーニバル」でこの車を見た記憶がある。(注) 藤沢飛行場は海軍航空隊が1944年(昭和19年)に航空無線機材の教育施設として整備したもので、戦後の一時期は米国に接収されたが、その後は民間の東洋航空工業(株)が運営した。1964年(昭和39年)10月に飛行場部は廃止となったが、この間、1959年(昭和34年)9月には米軍偵察機ロッキードU-2が不時着し、大騒ぎになった事があった。