電波兵器の調査に関わり、大変お世話になった上智大学名誉教授で、アンテナ技研株式会社の創立者である佐藤源貞先生が、先の1月18日にご逝去されました。佐藤先生は八木・宇田アンテナの発明者である八木秀次教授に心酔し、東北大学で電子工学を学び、同大学の助教授を経て上智大学で教鞭を執り、その後アンテナ技研株式会社を設立されました。 一方、先生は太平洋戦争の緒戦に陸軍南方軍兵器部がシンガポールで入手した英軍の電波兵器に関わる調査資料、「ニューマン文書」の研究者、発見者としても知られています。この文書により、当時我が国では殆ど評価をされていなかった八木・宇田アンテナを英軍がレーダーに使用していたことが判明し、日本の技術陣は驚愕しました。 当館は帝国陸海軍電波兵器の調査に関連し、先生が発見された「ニューマン文章」の複写を頂き、また、先生を介し多くの研究者と出会うことが出来、研究の裾野が一気に広がる事となりました。 ここに、生前佐藤先生より頂いたご協力、ご高配に心より御礼申し上げると共に、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 「ニューマン文書」と佐藤源貞先生 1942年(昭和17年)2月15日にシンガポールが陥落すると陸軍は技術調査団を直ちに派遣し、英軍の軍事技術全般に関わる現地調査を実施した。この折り、正確な対空射撃を行っていたブキテマ高地の高射砲陣地裏手の焼却場より、電子回路を書き留めたノートが発見された。 ノートの元所有者は英陸軍兵器部隊所属のNewmann(ニューマン)伍長で、彼は英本国でレーダーの教育を受けた。ニューマン伍長は非常に勉強家で、探照灯管制レーダーS.L.C.(Search Light Control) 、聴覚指示器V.I.E. (Visual Indicating Equipment)及び、対空早期警戒レーダーC.D./C.H.L.(Cost Defense/Chain Home Low )の取扱説明書より、動作概要、取扱法及び主要構成回を自身のノート(ニューマンノート)に克明に転記していた。 英軍の電波兵器に関わる機密保持は徹底しており、降伏前にその主要構成部分は徹底的に破壊されており、調査団はシンガポールに於いてレーダーの可動機を入手することは出来なかった。 しかし、ニューマン伍長のノートは南方軍兵器部により「ニューマン文書」として纏められ、研究各部門に配布され、我が国のレーダー開発に多大な影響を与える事になった。また、ニューマン文章により、敵国が当時日本では殆ど評価されなかった八木・宇田アンテナをレーダーに使用していることが判明し、我が国の科学者、技術陣は愕然とした。「ニューマン文書」の発見 1988年(昭和63年)、長年に渡りニューマン関連資料の探索を続けていた上智大学名誉教授の佐藤源貞先生は元陸軍技術少佐塩見文作(注)宅で「ニューマン文書」を発見し、その経緯を1990年(平成2年)3月にテレビジョン学会無線・光伝送研究会に於いて「八木アンテナに関する秘話」として口頭発表された。 後に本稿はHAM Journal平成4年3月・4月号(CQ出版)に掲載され、以降「ニューマンノート」、「ニューマン文書」の研究が進むことになった。特に八木和子氏を中心とした「ニュー・ぐるーぷ」はその研究成果を「第二次大戦秘話『ニューマン文書』と『ニューマンノート』の謎」(Vol.T、Vol.U、Vol. III)として纏め、公表した。 なお、佐藤先生が発見された「ニューマン文書」は現在、八木・宇田両先生縁の東北大学史料館に保管されている。(注) 元陸軍技術少佐塩見文作は陸軍の三式潜行輸送艇(輸送潜水艦)「ゆ」の開発者として知られている。