先日、帝国陸軍の電波兵器に関わりnetを検索中、八木和子著「ある正金銀行員家族の記憶」なる出版物を見つけ、誠に驚いた。八木和子氏には当館に於ける電波兵器関連資料の収集で、大変お世話になった経緯がある。 八木和子氏は戦前、横浜正金銀行の上級行員であった父と共に青春期の大半を海外で過ごし、英国領インドのカルカッタ王立音楽学校でピアノを学び、音楽教育をライフワークとした。しかし、戦中の一時期、多摩陸軍技術研究所で臨時用務員を勤め、これが縁で、後に当時研究が行われていた対空射撃管制レーダー「タチ31」の開発に関わる経緯を纏められた。 また、その後、タチ31号の母体である「タチ2号・4号」他、帝国陸海軍の射撃管制レーダーの開発に多大な影響を与えた「ニューマン文書」の調査グループを立ち上げ、我が国の電波兵器に関わる技術史の研究に貢献された。 事務局員は資料収集を通じ八木氏の知己を得、著書「レーダーの史実」や「『ニューマン文書』と『ニューマンノート』の謎」他多くの資料、情報を頂く事になった。八木氏は鎌倉にお住まいで、また、事務局員は鎌倉の生まれであり、電話口での会話は弾んだが、実際にお会いすることは無かった。しかし、「ある正金銀行員華族の記憶」により、八木和子氏は2018年(平成30年)に亡くなられていた事を知った。享年は97才であられたが、それにしても、誠に残念な事である。 なお、著書には、当時の多摩陸軍技術研究所の活動が色々と記されており、誠に興味深い内容である。八木和子氏と陸軍電波兵器 戦中八木氏は多摩陸軍技術研究所の東芝内川崎研究所で臨時用務員として終戦までの九ヶ月間を働き、終戦時に勤務中に書き留めた「た号改4型(タチ31号)」の記録を持ち帰った。 1977年(昭和52年)頃、女史は川崎研究所に勤務していた元上級技術将校達に働きかけ、当時開発を行っていた対空射撃レーダー「タチ31号」の開発に関わる経緯を纏めた。その後、この研究は防衛庁(現省)の協力の基、防衛庁技術資料82号「第二次大戦下における日本陸軍のレーダー開発・対空電波標定機た号2型、た号改4型」として部内出版された。 また、1995年(平成7年)には「技術資料82号」を補足し「レーダーの史実」として自費出版(非売品)を行い、関係部門への配布を行った。 八木氏はその後、陸軍の対空射撃管制レーダーの1号機である「た号1型(タチ1号)」、「た号2型(タチ2号)」の開発に大きな影響を与えた「ニューマン文書」の研究会を立ち上げ、その成果を1997年(平成9年)に「第二次大戦秘話『ニューマン文書』と『ニューマンノート』の謎」として纏め、自費出版(非売品)により関係部門への配布を行った。タ号改4型(タチ31号) 本機は多摩陸軍技術研究所の第3科長であった佐竹金次大佐の企画により、既設の対空射撃管制レーダー「タチ4号(た号4型)」に、ドイツ空軍の「ウルツブルグD型」の機能を転用し、短期間で開発が行われた対空射撃管制用レーダーで、和製ウルツブルグとも呼ばれる。 旧陸軍科学研究所の佐竹大佐(当時中佐)は1940年(昭和16年)春、山下奉文中将率いる遣ドイツ視察団の一員としてドイツに渡り、その後は現地に留まり、ドイツ空軍の射撃管制レーダー「ウルツブルグ」の国内導入に努めた。佐竹大佐は1943年(昭和18年)9月に独逸テレフンケン社の技師Heinrich Foders(ハインリッヒ・フォダス)を伴い帰朝し、多摩技術研究所の第3科長(大佐)に就いた。 潜水艦での帰路、佐竹大佐は複雑なウルツブルグの国内導入には既に時間が無いことを悟り、陸軍の既設射撃管制レーダーにウルツブルグの技術を転用した簡易型国産ウルツブルグの開発を企画した。本機は1944年(昭和19年)の秋に「タチ31号(た号改4型)」として完成し、陸軍が実戦導入した最後の射撃管制レーダーとなった。ニューマン文書 1942年(昭和17年)2月15日にシンガポールが陥落すると、陸軍は技術調査団を直ちに派遣し、英軍の軍事技術全般に関わる現地調査を実施した。この折り、正確な対空射撃を行っていたブキテマ高地の高射砲陣地裏手の焼却場より、電子回路を書き留めたノートが発見された。 ノートの所蔵者は英陸軍兵器部隊所属のNewman(ニューマン)伍長で、中には英軍の探照灯管制レーダーS.L.C.(Search Light Control) の取扱い及び動作概要他が記されていた。 この調査でS.L.C.本体は入手する事が出来なかったが、英軍電波兵器に関わる調査資料は南方軍兵器部により「ニューマン文書」として纏められ、各研究部門に配布され、我が国のレーダー開発に多大な影響を与えた。間もなくして開発された陸軍のタキ1号、タキ2号は、S.L.C.に精密測距機能を付加した構成である。 また、「ニューマン文書」により、敵国が当時日本では殆ど評価されなかった八木・宇田アンテナをレーダーに使用していることが判明し、我が国の科学者、技術陣は愕然とした。ニューマン文書の発見 1988年(昭和63年)、八木アンテナの発明者である八木秀次・宇田新太郎両博士を尊敬し、長年に渡りニューマン関連資料の探索を続けていたアンテナ技研(株)の創設者で、上智大学名誉教授の佐藤源貞先生は、元陸軍技術少佐塩見文作氏宅で「ニューマン文書」を発見し、その経緯を1990年(平成2年)3月にテレビジョン学会無線・光伝送研究会にて「八木アンテナに関する秘話」として口頭発表を行った。 後にこの発表はHAM Journal(CQ出版)1992年(平成4年)3月・4月・5月・6月号に掲載され、以降「ニューマン文書」の研究は八木和子氏を中心としたグループにより大きく進む事になった。