先般、東芝が開発した双五極管UL-6306が「ヤフオク!」に出品され、友人の収集家が落札した。応札者は一人で、落札価格は3300円であった。 UL-6306は陸軍の対空射撃管制レーダーの受信機に使用された希少管で、一昔前であれば、その数倍で落札されたと考えられ、小生は誠にたまげた。時は過ぎ、昨今はそんな時代であろうか。UL-6306補足 本管は東芝が1941年(昭和16年)頃に開発した高周波数帯用の双5極管で、自社の高gm五極管RH-8(8000μ℧)を2個封入した構造である。複合管構成にしたのはリードインダクタンスの低減と考えられ、用途は主にVHF受信機のフロントエンド部に於けるP.P.構成であろう。 UL-6306はRH-8とは異なりベースはボタンステム構造で、ピン配置はロックイン管構成である。また、Cpgを低く抑えるため、グリッドは管頂部に配置されている。ヒータは並列、直列のピン選択式で、6.3V、12.6V何れでの使用が可能である。陸軍射撃管制レーダーの開発 1942年(昭和17年)4月18日、米空母ホーネットより発艦したB-25爆撃機群が帝都上空に侵入し爆撃を敢行した。この空襲で侵入機を捕捉することが出来なかった陸軍は強い衝撃を受け、電波警戒機(対空監視レーダー)及び電波標定機(射撃管制レーダー)の開発が督励される事になった。 この時期、陸軍はパルス式電波警戒機の1号機である「超短波警戒機乙要地用」(タチ6号)を銚子に於いて試験中であったが、対空射撃を管制する電波標定機の具体的研究は手つかずの状況であった。 これより先、昭和17年2月15日にシンガポールが陥落すると陸軍は技術調査団を直ちに派遣し、英軍の軍事技術全般に関わる現地調査を実施したが、この折、探照灯管制用レーダーであるS.L.C.(Search Light Control) や、対空射撃管制用のG.L.(Gun Lying) MarkU等の技術資料を入手した。 同年7月、陸軍の射撃指揮具に関わる研究部門であり、電波標定機の早期開発を目指していた技術本部第二研究所はS.L.C.を基に電波標定機の開発を行うことを決定し、超短波装置の研究に実績のあった日本電気と東京芝浦電気に試作機の製造を依頼した。開発に際し、日本電気製が1型、東芝製を2型とし、各機の構造はいずれもS.L.C.に精密測距機能を付加したものであった。 技術本部の指示を受け、両社の標定機開発作業は直ちに開始され、同年10月には1型、2型の試作機各1基が完成し、千葉市の飯岡射場で実用試験が始められた。その後1型は電波標定機1型(タチ1号)、2型は電波標定機2型(タチ2号)として兵器化され、直ちに高角砲台への配備が進められた。電波標定機とUL-6306 日本電気のタチ1号、東芝のタチ2号は共に英軍の探照灯管制レーダーS.L.C.を参考に開発されたため、その構成、性能は相似し、運用周波数は200MHzで、等感度方式により標的の方位・高角・距離の3緒元を測定した。 日本電気が開発したタチ1号の受信機は高周波増幅二段、中間周波増幅6段、低周波増幅1段のスーパーヘテロダイン方式で、高周波増幅管、第一周波数混合管にはエーコン型五極管UN-954が使用された。 一方、東芝が開発した受信機は高周波増幅段無し、第一周波数混合、中間周波増幅5段、低周波増幅2段構成で、周波数混合管には自社が開発した双五極管UL-6306をP.P.構成で使用した。 タチ1号、タチ2号は共に陸軍が開発した対空射撃管制用レーダーの1号機であり、その性能は十分ではなかった。このため、後継機の開発は早く、間もなくして日本電気は英軍のG.L.を模倣し、タチ1号とは構成が全く異なリ、運用周波数も78MHzと低い、タチ3号を開発した。 また、東芝はタチ2号を改修し、構造がより英軍のS.L.Cに近いタチ4号を開発した。本機では受信機に高周波増幅部が付加され、第一周波数混合段と共に、UL-6306がP.P.構成で使用された。ウルツブルグとタチ31号(引き続きUL-6306を使用) ウルツブルグは独逸テレフンケン社が空軍向けに開発した対空射撃管制レーダーの傑作機で、運用周波数は580MHzである。戦中、帝国陸海軍は共同で本機の最新型である「FuMG-62D(ウルツブルグD型)」の国内導入を図り、ドイツより入手した図面、機材を基に日本無線が中心となり国産化が進められた。 このウルツブルグの国内導入に尽力したのが、1940年(昭和15年)末に出発した山下奉文中将を団長とするドイツ軍事科学技術視察団に帯同した、陸軍科学技術研究所の佐竹金次中佐(当時)であった。しかし、ウルツブルグの国内導入は、実機、資料を積載した潜水艦がシンガポールで機雷により沈没するなどして、その計画は当初の予定より大幅に遅れた。 このため、1943年(昭和18年)9月に帰朝し多摩陸軍技術研究所(多摩研)の第3科長に就いた佐竹大佐は、既設の電波標定機タチ4号にウルツブルグD型の機能を移転し、短期間で開発が可能な高性能射撃管制レーダー「和式ウルツブルグ」を企画した。 ウルツブルグの国産化と並行し、本機の開発は直ちに始められ、1944年(昭和19年)の秋に運用周波数が200MHzの試作機が完成し、タチ31号(電波標定機改4型)として兵器化された。短期間で開発されたタチ31号ではあったが、その性能は陸軍の既設対空射撃管制レーダーに比べ優秀で、本機は実戦配備が行われた陸軍最後の電波標定機となった。 タチ31号はタチ4号を改修し開発されたが、受信機はダブルスーパーヘテロダイン方式に変更された。しかし、その第一検波には引き続きUL-6306が使用され、このため、本管は軍の要求性能を満たし、信頼に値する動作をしたと考えられる。 なお、対空射撃管制レーダーの本命であったウルツブルグD型は、準備段階で終戦となり、実戦配備に至る事は無かった。