新年早々、英国の電子技術史研究家であるMike Dean氏より、帝国陸海軍のレーダー開発に計り知れない影響を与えた「ニューマンノート」の所蔵者、ニューマン伍長の消息について、素晴らしい情報の提供があった。 提供資料によると、ニューマン伍長の正式な氏名はNewman Joseph Walterで、出身はエセックス州ダゲナムである。伍長は英国陸軍対空砲兵連隊のレーダー機器担務要員で、1941年(昭和16年)12月25日に香港で日本軍の捕虜となり、深水捕虜収容所に抑留された。 その後、ニューマン伍長が本国でレーダー教育を受けた際に纏めた英軍レーダ機器に関わる個人ノートがシンガポールで日本軍の技術調査団により発見されると、彼は重要人物として東京品川の刑務所(捕虜収容所)に移送された。以降彼の消息については不明であったが、幸いにも無事に帰国出来たようで、1997年2月6日に英国で亡くなったとの事である。 香港で捕虜となったニューマン伍長の手記が、その後シンガポールで発見された経緯について、Mike Dean氏は以下のように推察している。「英軍ではレーダーに関わる兵の学習ノートは機密資料扱いで、内容確認のため担当部門に提出され、調査を受ける。このため、学習ノートは訓練コースの終了時に提出され、その後、正式な機密郵便で学生の新しい部隊に転送されるのが通常で、このため、ノ ートはシンガポールを経由し、ニューマン伍長に輸送中であった可能性が高い。しかし、香港が降伏したため、ノ ートを転送しようとしても意味が無くなった。(よって、廃棄された)」「ニューマンノート」 1942年(昭和17年)2月15日にシンガポールが陥落すると陸軍は技術調査団を直ちに派遣し、英軍の軍事技術全般に関わる現地調査を実施した。この折り、ブキテマ高地の高射砲陣地裏手の焼却場より、電子回路を書き留めたノートを発見した。 ノートの所蔵者は英陸軍兵器部隊所属のNewman(ニューマン)伍長で、彼は対空早期警戒レーダーC.D./C.H.L.(Cost Defense/Chain Home Low)や探照灯管制レーダーS.L.C.(Search Light Control)他の動作概要、取扱法及び主要構成回等を克明に転記していた。 英軍の電波兵器に関わる機密保持は徹底しており、降伏前にその主要構成機材は徹底的に破壊され、調査団はシンガポールでレーダーの可動機を入手することは出来なかった。 しかし、ニューマン伍長のノートは南方軍兵器部により「ニューマン文書」として纏められ、研究各部門に配布され、我が国のレーダー開発に多大な影響を与える事になった。また、ニューマン文章により、敵国が当時日本では殆ど評価されなかった八木・宇田アンテナをレーダーに使用していることが判明し、我が国の科学者、技術陣は愕然とした。 南方軍兵器部が作成した「ニューマン文書」は50余頁の冊子で、「ニューマンノート」の記述が欧文タイプで打たれ、併せ、図面類や電気回路図が写真製版で添付されている。 「ニューマンノート」が発見されると、彼は重要人物とし1942年(昭和17年)4月頃迄に東京品川の捕虜収容所に送られた。この時期陸軍技術研究所2科(測距担当部門)で対空射撃管制用レーダーの開発を模索していた岡本正彦技術大尉(注-1)は直接ニューマン伍長に合い、その内容について尋問を行いているが、以後彼の消息は不明となる。「ニューマン文書」の発見 1988年(昭和63年)、八木秀次博士を尊敬し、長年に渡りニューマン関連資料の探索を続けていた上智大学名誉教授の故佐藤源貞先生は元陸軍技術少佐塩見文作(注-2)宅で「ニューマン文書」を発見し、その経緯を1990年(平成2年)3月にテレビジョン学会無線・光伝送研究会に於いて「八木アンテナに関する秘話」として口頭発表された。 後に本稿はHAM Journal(平成4年3月・4月号)に掲載され、以降「ニューマンノート」、「ニューマン文書」の研究が進むことになった。 特に八木和子氏を中心とした「ニュー・ぐるーぷ」はその研究成果を「第二次大戦秘話・ニューマン文書」及び「ニューマンノートの謎」(Vol.T、U、 III)として纏め、公表するなどし、活発に活動した。 なお、佐藤先生が発見された「ニューマン文書」は、現在八木・宇田両先生縁の東北大学史料館に保管されている。若干の追記 今般提供を受けたMike Dean氏の資料により、之まで消息が不明であったニューマン伍長が無事英国に帰還した事が判明し、誠に幸いであった。これらについて佐藤源貞先生や「ニュー・ぐるーぷ」に報告をしたいが、各位は既に鬼籍に入られ、その術が無く残念である。(注-1) 岡本大尉(当時)は本資料に記載されていたS.L.C.の資料を参考に帝国陸軍初の対空射撃管制レーダーの開発を主導し、タチ1号・2号を完成させた。(注-2) 塩見文作技術少佐は戦前民間が開発した西村式小型潜水艇を使用し、水中に於ける音響伝播の調査、研究を行った。大戦後期となり、この経験が注目され、少佐は陸軍の輸送用潜水艦「ゆ」(○の中に「ゆ」)の建造指揮官に任命され、数隻を完成させた。