-(33 KB)昨年の12月13日、当館がお世話になっていた元海軍操縦員、本間忠彦先生がお亡くなりになりました。
本間先生は早稲田大学法学部在学中海軍13期予備学生に志願、訓練終了後各地の航空戦闘部隊を転戦し、後に茂原基地第252航空隊・戦闘第304飛行隊中尉(後に大尉)として終戦当日迄零戦52型にて果敢に戦われました。戦後は早稲田大学に復学し大学院に進まれ、後に同校及び関東学院大学の教授を勤められ、退任後は弁護士として活躍の傍ら、アマチュア無線家(JA1UE)として日本アマチュア無線連盟の監事を長年にわたり勤められました。
本間先生は学生の頃より無線通信技術に精通し、乗機に搭載されていた3式空1号無線電話機に対する理解も深く、装置の整備には万全を尽くされていたそうです。このため、本間機の無線は良く通じると評判で、編隊を組む同僚より頼りにされていたとの事でした。
去年の秋、長らく拝借し、館内に展示をさせて頂いた海軍秒時計1型をご返却申し上げましたが、この折「この時計を見ると当時の事が思い起こされる」と、懐かしそうにお話になっておられました。
ここに謹んで、本間先生のご冥福をお祈りいたします。
本間中尉最後の空戦
昭和20年8月15日0540、海軍茂原基地第252航空隊・戦闘第304飛行隊の本間中尉は関東地域に侵入した敵艦載機群を迎撃するため零戦52型で出撃した。高度6,000mで南東より侵入する敵機(米第3艦隊艦載機群)と接触、乱戦の中敵艦爆に命中弾与え黒煙をふかせ、一機撃墜を報告する。しかし、射撃後の退避飛行中、右舷下部より英軍機と思われる戦闘機の攻撃を受け被弾、猛火に顔面を焼かれつつも落下傘にて脱出、辛くも生還した。
戦後の調査により、本間機を撃墜したのは、第3艦隊にただ一隻加わっていた英航空母艦Indefatigableの艦載機Seafire(Spitfireの海軍型)であったことが判明した。
なお、本間中尉最後の空戦については「8月15日の空」(文芸春秋)他で詳しく紹介されている。
横浜旧軍無線通信資料館
土居 隆
-(194 KB)この度、町田市在住のアマチュア無線家JA1PWR、五十嵐宏殿より下記の品々をご寄贈頂きました。五十嵐殿には以前にも写真資料各種のご提供を頂いており、度重なるご協力に、心より感謝申し上げます。
CQ誌1955-67年 68冊
CQ誌広告合本 1冊
Handie Talkie KH811型(467MHz簡易無線機) 1台
単連ポリバリコン 2個
上記ご寄贈品の内、「CQ誌広告合本」とは、当時CQ誌に掲載されていたジャンク店やメーカーの広告を纏め1冊に製本した物で、これは当時五十嵐殿のお兄様(JA0IY)が作られました。本誌一冊で当時販売されていたジャンク品や、メーカー製機材の総てを知る事ができ、当館にとっては誠に値千金の資料と考えます。
Handie Talkie KH811型は1950年(昭和25年)に解放された市民ラジオ(簡易無線)用の適合製品です。本機はエーコン管6F4、電池管3A4の2球で構成された簡易無線機で、動作原理は陸軍の94式6号無線機と同一です。
なお、Handie Talkie KH811型については別項で若干の補足を行いました。
簡易無線について
1950年(昭和25年)に電波監理委員会は、米国のシチズンバンド(市民ラジオ)制度にならい簡易無線局を法制化した。簡易無線局とは、「簡易無線業務(簡易な無線通信業務でアマチュア業務には該当しない)を行う無線局」と定義され、当時制定された運用周波数、空中線電力、変調方式は以下であり、免許の有効期間は3年であった。
VHF帯: 154.53MHz、送信出力30W以下、電波形式AM又はFM(水晶発振方式)
UHF帯: 460-470MHz、30W以下 AM又はFM(水晶発振方式)
UHF帯: 463MHz又は467MHz、3W以下、AM又はFM(自励発振方式)
上記無線設備は「無線機器型式検定規則」による型式検定の対象で、運用には特殊無線技士(簡易無線電話)の資格が必要であった。しかし、1958年(昭和28年)になると電波法が改正され、型式検定に合格した無線設備の操作を行う場合は、無線従事者資格は不要となった。1961年(昭和36年)になると27Mc帯を使用した簡易無線局が法制化され、電波の解放が進み、1983年の法令改正により、市民ラジオ局は漸く免許を必要としない無線局となった。
-(37 KB)本無線電話機は、電波法の改正により1950年(昭和25年)に解放された「市民ラジオ」周波数467MHzの適合機材で、製造は国際電気(1953年1月)、本体には「DENPA」と表記された郵政省の無線機器型式検定合格印が貼付けられている。
KH811型はエーコン管6F4(3極管)、電池管3A4(5極管)の2本により構成され、送信時は自励発振・陽極変調、受信時は超再生検波・低周波増幅の簡易無線装置として動作するが、その原理は陸軍の94式6号無線機や、1960年代に流行した双3極管3A5一本を使用したアマチュア無線用のトランシーバーと同一である。
無線機の外観は米軍の携帯無線機BC-611を彷彿させる構造で、機材の前面上部にはマグネチック式受話器が、下部にはカーボン式の送話器が配置され、空中線は1/4λのホーイップ型、電源は乾電池式で別箱に収容され、腰に固定して使用する。本体の操作部は送受信切替用の押ボタン式スイッチのみで、音量調整器や超再生調整器は装置されておらず、また、電源スイッチは電池箱に装置されていたと考えられる。
内部は高周波部、低周波部に二分割され、高周波部の同調回路はレッヘル線同調方式で、構成素材には銀メッキが施されており、初期の簡易無線機のこともあり、慎重な造りとなっている。
ところで、これらVHF・UHFの簡易機材(自励発振・超再生検波方式)の場合、通常高周波部には掲示資料図Bの三点回路(アルトロージオン回路)と称される発振回路が使用される。本回路はコルピッツ発振回路の変形であるが、受信時はグリッドに数MΩの高抵抗を挿入するとブロッキング発振が誘起され、自励式の超再生検波回路として動作する。
しかし、KH811型の高周波部は通常の3点回路とは異なり、図Aのごとく同調回路を空中線同調部と、発振同調部の二つに分ける複雑な回路構成を採用している。本回路は「チーエン現象」の防止原理を応用し、発振回路の安定を保つ方策であったと考えられ、周囲の影響を受けやすい自励式装置に対する格別の配慮が伺える。
「チーエン現象」とは、周波数が接近する2個の同調回路が結合している場合、一方の同調定数を調整すると、ヒステリシスが生じ、 調整結果に飛び越しが現れる現象である。この対策の一つとして、一方の共振回路は正帰還で、他方は負帰還にて結合すると、負帰還側の回路は見かけ上のQが下がるため、相互干渉に起因する「チーエン現象」を防止する事が出来る。
本簡易無線機は発振が不安定な自励式であることから、この原理を応用し、空中線同調回路と発振同調回路を逆位相で構成し、空中線回路の見かけ上のQを下げ、外部環境の影響を受けやすい空中線回路が、発振回路に影響を与えることを防ぎ、発振の安定を図ったともの考えられる。
Handie Talkie KH811型緒元
用途: 携帯通話
通信距離: 約0.5-2km
周波数: 467MHz
変調・送信出力: 振幅変調(AM)、出力0.5W
機材構成: エーコン管6F4(3極管)、電池管3A4(5極管)各一本による自励発振、超再生検波方式
送信時構成: 自励発振6F4、陽極変調3A4
受信時構成: 超再生検波6F4、低周波増幅3A4
電源: 乾電池90V、6V(外部携帯式)
空中線: 1/4λホーイップ型
写真補足
中央の樹脂板に固定された太い棒線が空中線同調回路を構成するレッヘル線、下部が空中線回路調整用の半固定トリマ。上部が発振回路同調用のレッヘル線、右端に斜めに取り付けられているのが周波数微調整用の半固定トリマ。右側中央が発振、検波用のエーコン管6F4、樹脂板で造られた特製の基台に固定されている。UHF帯黎明期の機材でもあり高周波部の造りは丁重で、各部品には銀メッキが施されている。
回路図作成: 山本健殿
-(44 KB)昨年の暮れ、NHKスペシャルで1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇「甲標的」を題材とした「真珠湾の謎・悲劇の特殊潜航艇」が放送された。この放送に関連して、甲標的に搭載された無線機材についての問合わせが各方面より有り、これを機に、手持ち資料を基にその概要を纏めてみた。
甲標的
特殊潜航艇(特潜)「甲標的甲型」は艇長23.9m、動力は蓄電池駆動による600馬力電動機、武装は97式酸素魚雷2本、航続距離(真珠湾特別攻撃隊仕様)は大凡6ノットで80海里(150Km)、最高速度16ノット、乗員は艇長と艇付の二名であり、本艇の制式採用は1940年(昭和15年)11月である。
甲標的は当初艦隊決戦時の前衛戦力として立案・開発されたが、航空機の発達によりこの計画は困難となり、泊地に対する潜入攻撃へと用途が変更された経緯があった。しかし、甲標的は大洋運用型のため小回りが効かず、狭い港湾での作戦には適さない構造的欠陥があった。
昭和16年の後半、海軍は米国との戦争に備え、航空兵力による真珠湾への奇襲攻撃を立案するが、特潜開発部門よりの強い要望があり、最終的に甲標的も特別攻撃隊(第一次神亀隊)として参加する事が了承された。
昭和16年12月8日の真珠湾攻撃作戦には甲標的5艇が投入されたが、搭載潜水艦及び甲標的搭乗員は以下であった。
【伊号第16潜水艦】横山正治中尉・上田定二等兵曹、【伊号第18潜水艦】古野繁實中尉・横山薫範一等兵曹、【伊号第20潜水艦】廣尾彰少尉・片山義雄二等兵曹、【伊号第22潜水艦】岩佐直治大尉・佐々木直吉一等兵曹、【伊号第24潜水艦】酒巻和男少尉・稲垣清二等兵曹。
なお、本作戦に参加した甲標的は真珠湾特別攻撃隊仕様であり、艇首前方に突出た特徴ある防潜網突破用のカッターを備えていた。このため、本形状が後に、消息を絶った真珠湾攻撃艇の発見、確定に役立つ事になった。また、攻撃に参加した全艇は未帰還であったが、唯一横山艇が奇襲成功を伝える電文を発信したと考えられている。
NHKスペシャル
現地日時、1941年(昭和16年)12月7日の00時40分から03時30分にかけ、真珠湾の沖合(5-13浬)に展開した5隻の伊号潜水艦より、甲標的5艇が真珠湾軍港に向け発進した。しかし、以後の各艇に関わる行動や戦闘状況、最期については必ずしもハッキリせず、今日もなお多くの研究者により諸説が述べられている。これら5艇の内、酒巻艇は座礁して鹵獲され、岩佐艇は湾内で撃沈されその後引揚げられた。残る3艇のうち2艇は後年湾口近くで発見され、未発見の甲標的は1艇であった。
NHKスペシャル「真珠湾の謎・悲劇の特殊潜航艇」は、その、最後の1艇の発見を題材としたものであり、この甲標的は湾外で発見された。映像では、本特潜は艇首の形状から真珠湾攻撃型と考えられるが、艇体は三つに分解され、吊上用の鎖が巻かれており、明らかに海洋投棄(魚雷収容筒は空)された状態であった。番組では、当該甲標的は湾内への突入に成功した横山艇であり、何らかの理由により、回収の事実を伏せられたまま海洋投棄されたものである、と結論づけていた。しかし、肝心の、湾内での発見場所や投棄に至る経緯についてはまったく不明であり、私的には不満の残る内容であった。
発信電文
ところで、横山艇は唯一母艦である伊号第16潜水艦へ奇襲成功を伝える電文を発信した特潜とされ、このため、当初より湾内への潜入に成功したと考えられていた。この発信電文については「奇襲成功セリ」を伝えるセ・セ・セのセ連送や、トラ・トラ・トラ、航行不能を意味する指定符号等各種が伝えられている。しかし、特潜発進後、伊号第16潜水艦の通信室で対向周波数の待受け受信を行った元海軍電信員の出羽吉次氏(横山艇の整備担当下士官)によると、雑音の中、受信出来た信号は現地日時7日18時11分に横山艇が発信したと思われる「キ・ラ」の二文字だけであった。本電文については、和文電信の「キ(一・一・・)」符号は「ト(・・一・・)」に似ており、このため特潜の上田定二等兵曹が突入成功を伝える「ト・ラ」をキ・ラと打損じたのではないかと考えられている。
なお、甲標的の通信対向は発進潜水艦のみであり、他艦艇との通信は考慮されていなかった。
特潜5艇に関わる若干の補足
当日の真珠湾内外に於ける特潜の行動は、米国側の資料を基に推測も含め、多くの出版物で紹介されており、よって、本項ではその概要のみを簡単に紹介する。
酒巻艇は攻撃日の翌日に真珠湾の東方、約75km離れたベローズ飛行場近くの海岸に座礁し鹵獲された。本艇はジャイロコンパスの故障を承知で強行出撃したが、艇位置を失い湾口に到達できず、予定された母艦の収容海域に移動中座礁したものと考えられている。酒巻艇はその後、米国民の戰意昂揚と戰時国債募集のため全米各地を引き回されたが、現在はテキサス州の戰争関連博物館に展示されているとの事である。
岩佐艇は真珠湾突入に成功したがフォード島の西水道で駆逐艦の攻撃により撃沈され、その後発見され引揚げられた。しかし、本艇は損傷が激しく、このためか、丁重な慰霊の後、搭乗員2名を艇内に残したまま埋設された。この折発見された袖章(第一種軍裝)が海軍大尉のものであったことから、本艇は岩佐艇と確認され、袖章は戦後ご家族に返還された。
残る3艇であるが、その内の1艇が1960年(昭和35年)年7月に現在のホノルル国際空港東岸近くの珊瑚礁外側、水深約40mの海底で発見され引揚げられた。この甲標的は魚雷を装填した状態で、艇尾には爆雷によるとみられる軽微な損傷があった。本艇のハッチは固定されておらず、艇内部には遺骨や搭乗員の確定につながる遺留品は残っていなかった。米国より返還され、現在江田島の海上自衛隊第一術科学校に展示されている甲標的が本艇と考えられている。
近年になり、2002年(平成14年)8月にハワイ大学海底調査研究所[Hawai‘i Undersea Research Laboratory (HURL)]所属の深海潜水艇が真珠湾外5浬の水深約400mの海底で甲標的を発見した。本艇は魚雷2本を装備しており、艇首の形状から真珠湾攻撃型と確定された。発見艇の司令塔下部には直撃弾を受けたと考えられる穴が空いており、このため、真珠湾攻撃の当日、1941年12月7日(現地日時)の06時45分に駆逐艦ワードの砲撃により湾口近くで撃沈された一艇と考えられるが、何れの搭乗艇であるのかは不明である。
以上の経緯により未発見の甲標的は1艇のみであったが、NHKスペシャル「真珠湾の謎・悲劇の特殊潜航艇」により、攻撃に参加した5艇の総てが発見されたことになる。
なお、以下のURLにHURLが発見した甲標的の写真が掲載されている。
http://www.soest.hawaii.edu/HURL/midget.html#images
写真補足
掲示は座礁し鹵獲された酒巻艇で、調査のため分解された状態である。司令塔上中央が特眼鏡(潜望鏡)で、その前部(右)が繰出式のロッド型空中線である。座礁時の写真では、酒巻艇の空中線は司令塔上部には出ておらず、後に調査のため展開されたものと考えられる。
なお、司令塔より艇首・艇尾に伸びている太いワイヤーは対防潜網用の保護索で空中線ではない。
写真出典: U.S. National Archives
-(54 KB)甲標的に搭載された無線機材については資料が殆ど残っていない。本機は特殊用途のため製造台数が極端に少なく、又、設置場所も特潜内部のため海軍の一般電信員には馴染みがなく、当時の艇付整備担当者ですら殆んど記憶にない状況であった。日本無線史第10巻「海軍無線史」には「甲標的の通信兵装は、特殊の小型短波送信機を1組と、約1mの短波檣(マスト)を装備し任務報告を打電することだけを要求された・・・」と記されているだけで、その構造については全く不明であった。
しかし、幸いにも2002年に日本アマチュア無線連盟(JARL)より、オーストラリアのアマチュア無線関連機関誌に掲載された甲標的搭載無線機材に関わる記事の提供を受けた。文中で解説された無線機は、1942年(昭和17年)6月にオーストラリアのシドニー湾で回収された甲標的に搭載されていたもので、この記事により漸く本機材の概要が明らかになった。
シドニー湾攻撃隊(第二次神亀隊)
昭和17年5月31日、シドニー軍港を甲標的3艇が攻撃した。伊号第22潜水艦より発進した松尾艇、伊号第24潜水艦の伴艇、伊号第27潜水艦の中馬艇である。伴艇は首尾良く湾内への潜入に成功し米海軍の重巡シカゴを雷撃するが、魚雷は命中せず岸壁で爆発、停泊母艦クッタブルが被爆し沈没した。攻撃終了後本艇は湾外に脱出したが、その後伴勝久中尉と芦辺守一等兵曹は艇と共に消息を絶った(本艇は2006年11月にシドニー湾外で発見された)。松尾艇も湾内への突入に成功するが哨戒艇の爆雷攻撃を受け行動不能となり、松尾敬宇大尉と都竹正雄二等兵曹は自決した。中馬艇は不運にも潜入時湾口に設置された防潜ネットに絡まり動きが取れなくなり、中馬兼四中尉と大森猛一等兵曹は艇と共に自爆し、この攻撃に於ける生還者はなかった。
本攻撃終了後、オーストラリア海軍は直ちに二艇を引き上げ細部の調査を行った。JARLより提供を受けた資料は、この折2艇を調査したNavy Office Melbourneの報告書を基に、Col Harvey(VK1AU)氏がJournal Of The Radio Amateur Oldtimer’s Club Of Australia(Number 12, March 1993)に寄稿した「Japanese Midget Submarine DID Have Wireless Equipment」の写しである。記事によると、その後Australia War Memorialに保管されていた無線機材及び関連写真は既に失われたとのことで、残念ながら本機の外観構造は知ることは出来なかったが、配線図や説明文からその概要は把握する事が出来た。
なお、掲示資料上部の配線図は、本記事に添付されていた図面を基に作成したものであ。
甲標的搭載無線機材概要
Col Harvey氏の記事によると、驚いたことに本機は海軍の2座航空機搭載用無線機材である96式空2号無線電信機原型(掲示資料下部)に相似した回路構成で、装備真空管も同一であった。しかし、運用周波数は異なり、96式空2号原型が長波帯300-500KHzを、短波帯は5,000-10,000KHzをカバーするのに対し、本機材は短波帯のみで、その範囲も7,500-10,000KHzとなっている。
送信部は固定周波数発振用の水晶片を2個装備し、水晶又は自励による発振、電力増幅構成である。送信部は2周波数切替運用方式で、発振、空中線同調回路が2系統で構成され、周波数の切替が転換器により一挙動、無調整で行える構造となっており、本式は96式空2号原型と同一である。
受信部は高周波増幅1段、中間周波増幅1段、低周波増幅1段構成で、回路は96式空2号原型に相似するが、固定周波数2波受信用に水晶片2個を装備する構造となっている。
上記から、甲標的に搭載された無線装置は96式空2号無線電信機原型に類似していたと考えられるが、96式空2号各型(原型・改-1・改-2)で送信機及び受信機に水晶片各2個を装備する機材はない。よって、シドニー湾で回収された甲標的搭載無線機材は、96式空2号無線電信機原型を基に開発された特潜用の「特型」で有り、外観、構造も空2号に類似していたと考えられる。
なお、回収された無線装置2機に装備されていた送信用水晶片の周波数は各機で異なっており、このため、甲標的の通信は発進潜水艦のみを対象としていたことが分かる。
甲標的搭載型無線電信機諸元
製造:沖電気
送信周波数: 不明(7,500-1000KHzと推測)、1台に8,775.5KHz、他の1台に7,955及び8,950KHzの水晶片実装あり
受信周波数: 7,500-10,000KHz(受信機較正表による)
電波型式: A1(電信)、A2(変調電信)、A3(電話)
送信機構成: 水晶(2個装備可)又は自励発振UZ-510、電力増幅UZ-510 x2並列使用、第3格子変調
受信機構成: スーパーヘテロダイン方式、第1局部発振自励又は水晶制御(2個装備可)、高周波増幅1段UZ-6D6、周波数混合Ut-6L7G、第一局部発振UY-76、中間周波増幅1段UZ-6D6、検波・低周波増幅1段Ut-6B7、第二局部発振(BFO)UY-76、低周波増幅2段UZ-41、側音発振UY-76
中間周波数: 635KHz
送信電源: 直流変圧器、出力1,000V
受信電源: 振動式直流変圧器、出力250V
空中線: ロッド式(1m)
写真補足(96式空2号)
掲示資料下部が96式空2号無線電信機の原型で、本体右半分が送信部、左が受信部である。送信部上部、右側上部のバーニアダイアルが短波1の空中線同調器、下が長波・短波1の発振同調器。中央上部が空中線電流計、下が動作転換器(送受・断・着受・較正)。左側上部のバーニアダイアルが短波2・3の空中線同調器、下が短波2・3の発振同調器。送信部下部、右側下の水晶片ソケットが長波用、上が短波1用。中央が水晶片選択用転換器。左側上部の水晶片ソケットが短波2用、下が短波3用。なお、水晶片未実装の場合は自励発振方式となる。また、長波帯の空中線同調は外部に付加する長波延長線輪によって行う。
受信部上部中央が手動同調器、同調器下部に配置された操作ツマミは左が電信・電話切替器、中央が微調整器(同調補助)、その下が音量調整器、右が長波・短波切替器。96式空2号原型の受信機は手動同調方式のみで、水晶片を使用した固定周波数受信機能を備えていない。よって、前面に水晶片ソケットは装置されていない。
海軍96式空2号無線電信機原型諸元
用途: 2座航空機搭載
送信周波数: 長波300-500KHz、短波5,000-10,000KHz
受信周波数: 長波300-500KHz、短波5,000-10,000KHz
電波型式: A1(電信)、A2(変調電信)、A3(電話)
送信機入力: 100W
送信機構成: 水晶(長波1、短波3装備可)又は自励発振UZ-510、電力増幅UZ-510 x2並列使用、第3格子変調
受信機構成: スーパーヘテロダイン方式(局部発振水晶制御機能無し)、高周波増幅1段UZ-6D6、周波数混合Ut-6L7G、第一局部発振UY-76、中間周波増幅1段UZ-6D6、検波・低周波増幅1段Ut-6B7、第二局部発振(BFO)UY-76、低周波増幅2段UZ-41、側音発振UY-76
中間周波数: 635KHz
送信電源: 直流変圧器、出力1,000V
受信電源: 振動式直流変圧器、出力250V
空中線: 固定式、垂下式
96式空2号無線電信機特型
特型に関連し、日本無線史第11巻「無線機器製造事業史」、「沖電気株式会社」の項に、甲標的用と考えられる96式空2号無線電信機の特殊仕様に関わる以下の記述を見つけた。
「96式空2号無線電信機は13年頃から試作(注)を始め(最初5台であった)、15年頃には空3号と共に量産されていた。又空2号は据置型として16年頃より改造に着手され、15台を製作したが、これは潜行艇用にS金物と称して取付けられた。」
上記から、シドニー湾より回収された機材(沖電気製)は、本96式空2号無線電信機特殊仕様型であった可能性が高い。96式空2号は航空機搭載型であるため、機体に緩衝ゴム紐で宙づりの状態で装置された。しかし、特潜用機材はマウントを介し艇内に設置され、塗色も他の海軍艦艇用無線機材と同様に黒色であったと推測される。
伴艇の発見
2006年11月、65年ぶりに伴艇がシドニー湾外の北側、沖合2浬の地点、深度60mの海底で発見された。伴艇の中央部両側面には大きな穴が空いており、発見場所や状況から、シドニー湾を脱出後、母艦の安全を考慮し帰投はせず、自爆したようにも思われる。本艇は引き揚げをせず、そのまま海底に保存されることになり、2007年8月6日、現場海上で日豪の関係者により追悼式が厳粛に執り行われた。
なお、下記URLにて本特潜の調査状況が閲覧出来る。
http://www.youtube.com/watch?v=iW9zLRqBNm4&feature=PlayList&p=EABA610839C0B7F7&playnext=1&playnext_from=PL&index=7
(注) 試作とは、空技廠で開発された96式空2号を、他社と同様に同社で量産するための作業であった考えられる。
配線図作成: 山本健殿
写真出典: U.S. War Department TM-E-30-480「HANDBOOK ON JAPANESE MILITARY FORCES 」15/September/1944
-(33 KB)前述のごとく、「Japanese Midget Submarine DID Have Wireless Equipment」の記事他により、甲標的に搭載された無線機材は96式空2号無線電信機の特型であることがほぼ判明したが、その外部構造については空2号や回路図を基に推測する他はなかった。しかし、その後、米国のTechnical Air Intelligence Center (TAIC-米海軍航空情報部)が大戦中に作成した鹵獲日本軍用機に関わる資料の中に、甲標的搭載型と推測構造が相似する「試製短波無線電信機・96式空2号改造型」なる機材の写真及び概説記事を見つけた。
当該無線電信機の諸元は送信出力を除き、シドニー湾で回収された甲標的搭載機材と符合し、外部構造も回路図から推察される特型と一致するものであった。本写真機材は航空機搭載型であるが、当館は現在、この「試製短波無線電信機」の据置型が、甲標的搭載用無線電信機であったと考えている。
写真補足
掲示がTAICに掲載されていた「試製短波無線電信機」である。無線機本体右半分が送信部、左が受信部である。送信部の構造は水晶片の装備数を除き、96式空2号無線電信機原型とほぼ同一である。下部の左右に送信用水晶片が2個実装されている。
受信部の前面構成も96式空2号原型に類似するが、固定周波数受信用として第一局部発振用水晶片2個を装備するようになっている。下部の左右に受信用水晶片2個が実装されている。本機材は短波帯専用機のためバンド切替スイッチが必要ない。このため、受信部の操作ツマミは96式空2号の原型と比べ一つ少ない構造になっている。
試製短波無線電信機諸元
周波数: 7,600-10,000
電波型式: A1(電信)、A2(変調電信)、A3(電話)
送信機出力:電信 27w、変調電信・電話9w
送信機構成: 水晶(2波装備可)又は自励発振UZ-510、電力増幅UZ-510 x2並列使用
受信機構成: スーパーヘテロダイン方式(局部発振水晶制御2波装備可)、高周波増幅1段UZ-6D6、周波数混合Ut-6L7G、第一局部発振UY-76、中間周波増幅1段UZ-6D6、検波・低周波増幅1段Ut-6B7、第二局部発振(BFO)UY-76、低周波増幅2段UZ-41、側音発振UY-76
電源: 送受信機各直流変圧器
なお、TAICに掲載されていた構成真空管はUt- 6L7G x1、Ut-6B7 x1、UZ-41 x1、UZ-6D6 x2、UX-76 x3、UZ-510 x2(記述はx2とあるがx3の間違と推測)である。
甲標的空中線
当初潜水艦の短波通信は起倒式のケージ型空中線や、防潜網除去索に沿わした空中線により行われていたが、後に潜望鏡昇降装置を応用し短波檣(マスト)なる空中線が開発された。本装置は昇降装置の先端露頂部内部に1mの黄銅棒をエボナイトで防水し空中線素子とし、これを送信機に接続するもので、潜行中空中線部だけを水面上に露出し通信を行うことができた。
この構造を応用して、甲標的にも同一型の空中線が使用されたが、本空中線に関し「海軍電気技術史」には以下の記述がある。
「この短波檣(甲標的用)は艦制本部第3部に於いて最も苦労したものの一つで50-60浬の通信能力の要求に対し、空中線高と使用周波数の関係上殆ど自信のないものであった。」
Navy Office Melbourneの報告書によると、本空中線は太さ約6cm、長さ約68cmのロッドで、司令塔内前部に装備され、使用時は手動ハンドルで艦橋上部に繰出す構造となっていた。
なお、本空中線の構造については、冒頭に掲示した酒巻艇の写真により知る事が出来る。
搭乗員の収容
甲標的は特攻兵器と同列に考えられているが、それは必ずしも正しくない。特潜は攻撃終了後母艦に帰投し、搭乗員を収容後、乗艇は自沈処分することになっていた。伊号第16潜水艦の電信員であった故石川幸太郎氏の陣中日誌「潜水艦伊16号通信兵の日誌」(草思社)の中には、無線支援による特殊潜行艇との夜間洋上会合訓練に関わる記述が多くあり、搭乗員の収容に配慮がなされていたことが分かる。
1942年(昭和17年)2月15日の日記には「・・・本日の無線方位測定は結果非常に良好で、誤差最大10度、また水信(水中受信「音響」)による距離6000メートにて聴取可能。及び無線、水信により、同時発射時間差による距離測定も良好なる。・・・」とある。
「本日の無線方位測定は結果非常に良好で・・・」とは甲標的から発せられた電波を伊16潜の短波用方向探知機で受信し、方位測定を行った事を示唆すると考えられる。我が国の艦艇は通常長波用方向探知機のみを装備し、艦艇使用では誤差の多い短波用方向探知機は装備していなかった。しかし、甲標的を搭載した潜水艦には会合目的として、特別に短波用方向探知機を装備していたと考えられ、2月12日の記述には「午後8時出航。特殊潜行艇の訓練及び通信科作業としては、短波方位測定による自差曲線(測定値補正表)作成及び自隊訓練。・・」とある。
ところで、「・・水信(水中受信)による距離6000メートにて聴取可能。」とは甲標的がゴング等により音響を発し、これを伊16潜の水中聴音機で受信し、大凡の距離を測定する作業であったと考えられる。よって、「・・無線、水信により、同時発射時間差による距離測定も良好なる。」とは甲標的が音響発信と同時に電波を発信し、伊16潜では電波の受信時間と水中聴音機による音響受信時間の差により、標的間の距離を測定する作業であろう。つまり、音響の到着時間が4秒で、方向探知器の測定結果が方位90度であったと仮定すると、水中での音速は大凡1,500m/秒であることから、発信源である甲標的は、測定艦より90度の方位線上約6,000mに位置することになる。
最新情報
真珠湾攻撃に参加し、鹵獲・回収された特潜については、米国側より関連写真や戦闘記録等多くの資料が公表されている。しかし、搭載無線機材に関わるものは皆無であり、唯一の資料が冒頭に掲示した酒巻艇の司令塔上部に展開された特潜用短波檣であった。
ところが、先日、以前の来館者より情報の提供が有り、米国アリゾナ大学が所蔵する戦艦アリゾナに関連した資料の中に、特潜搭載無線機材に関わる銘板写真を見つけることができ、この写真には以下の説明文が付記されていた。
Name plate of radio transmitter from two man Japanese midget submarine which entered Pearl Harbor and was sunk, December 7 1941. (これは、1941年12月7日に真珠湾に潜入し撃沈された日本の二人乗小型潜行艇に装備されていた、送信機の銘板である)
上記によると、当該資料は特潜の送信機に付けられていた銘板とのことであるが、記述には「振動直流変圧器・96式空2号無線電信機受信用・海軍航空技術廠」とあり、本機材が96式空2号無線電信機の、受信部用バイブレター式電源であることが分かる。
ところで、既に概観した様に、甲標的に搭載された無線機材は96式空2号無線電信機を改造した特型であったと考えられる。このため、電源部は96式空2号に共通しており、よって、本受信電源は従来の機材を特型に流用したものと考えられる。
何れにせよ、この銘板により、真珠湾攻撃艇に搭載された無線装置は、シドニー湾攻撃艇と同様に、96式空2号無線電信機に関連した機材であった事が判明し、誠に幸いであった。
なお、以下のURLで該当の銘板を閲覧することが出来る。
http://www.library.arizona.edu/exhibits/ussarizona/ship/64-5-1.jpg
資料提供: 秋本実殿
資料出典: U.S. Technical Air Intelligence Center Manual No.1、Japanese Aircraft Performance & Characteristics
-(35 KB)同好の皆様へ
本年、陸上自衛隊久里浜通信学校が創立60周年を迎えますが、これを機に、同校「歴史館(資料館)」の整備が計画されております。
ご存知のように、現久里浜通信学校は元帝国海軍久里浜通信学校の施設を継承した経緯が有り、我が国の軍用無線通信には誠に縁の深い場所であります。現在の同館所蔵展示物は新旧色々ですが、由緒ある施設の資料館としては更なる整備が必要と考えます。
このため、当館では同好諸氏のご協力を頂き、関連する通信機材各種を寄贈し、歴史館の整備に役立てて頂きたいと考えております。
つきましては、以下の物品の収集に、皆様のご協力をお願い申し上げます。
収集対象物
警察予備隊・保安隊・自衛隊関連機材、米軍・諸外国軍用通信機材(参考資料)及び関連資料各種(含む紙資料)
なお、寄贈先は陸上自衛隊久里浜駐屯地広報班ですが、当館にご連絡を頂ければ寄贈品の検討、発送方法他、必要な調整をさせて頂きます。
横浜旧軍無線通信資料館
土居 隆
〒246-0032横浜市瀬谷区南台1-21-4
Tel.045-301-8044
-(29 KB)掲示はガダルカナル島で米軍が上陸時に鹵獲した海軍の11号電探(1号電波探信儀1型)である。先に「11号電探遺構」にて記述のごとく、この折米軍は11号電探2基を鹵獲したが、写真機材はその内の1基である。先般掲示の遺構写真には鹵獲された11号電探が合成されているが、今般掲示の11号と同一機材であるのかはハッキリしない。
なお、参考として、以下に11号電探の開発に関わる経緯他を纏めてみた。
海軍電波探信儀1号機(11号)の開発
当初、防衛兵器であるレーダー(電波探信儀)に対する帝国海軍上層部の考えは、必ずしも肯定的なものではなかった。しかし、欧州の戦いで、電波探信儀の重要性が明らかになると、海軍は漸くこれら兵器の開発を決定し、昭和16年(1941年)8月2日に海軍大臣より電波探信儀の研究実験着手が訓令された。海軍技術研究所電気研究部長の佐々木恭少将は、研究実験を急速に進展させるため、各部が一致してこれに当ることを命ずるとともに、テレビジョン研究の権威である日本放送協会技術研究所の高柳健次郎博士や日本電気の技術部等、民間の科学者や技術陣に協力を要請した。
これより以前、遣独逸視察団や駐英武官の報告他で各国の電探はパルス方式であることが判明しており、電気研究部はメートル波帯用の実験装置として艦艇用の超短波電話機(試製超短波2号送信機)を改良し、波長4.2m(71MHz)で尖頭出力500wのセットを完成させていた。本機の実験は神奈川県野比の海軍機雷学校実習所構内で進められ、7月29日(注-1)の第1回対航空機実験では大艇1機に対し18kmで大きな反射波を確認し、中型航空機3機に対しても同様の結果を得た。間もなくして波長3m(100MHz)で尖頭出力5kw(注-2)の試作機が完成し、10月6日(注-3)の実験(航空機種不明)では、高度3,000mで95kmの測定が可能であることか確認された。
当初、実験装置に使用された指向性型空中線の偏波は英国武官の報告に基づき垂直偏波であった。しかし、当時は航空機よりの電波反射についての研究は成されておらず、探知には水平、垂直何れの偏波面が有効であるのかは判然としなかった。このため偏波面に関わる調査が進められ、10月初旬の対航空機実験では水平偏波式空中線が使用された。この実験で中型陸上攻撃機に対し110km、3機編隊の場合は145kmの測定結果を得る事が出来、見張用電探の場合は水平偏波が有効であるとの結論を得た。
試作機による各種実験の結果、改良すべき諸問題が明確となり早速手直しが行われ、本装置の兵器化が急速に進められた。送信装置は日本電気、受信装置は日本音響、空中線の回転装置部分は富士電気が担当し、各社の協力を得て本格的な生産が始まり、完成機は1号電波探信儀1型(11号)として制式制定がなされた。最初の計画整備台数は50台であり、その1号機は房総半島東岸の勝浦灯台近く、海抜80mの場所に設置され、太平洋戦争が始まる直前の昭和16年11月28日に動作試験が完了した。
大戦が勃発し緒戦の勝利で戦線が拡大するとウェーキ島、ラバウル等南方前線要地に対する11号の配備が進んだが、直後に故障が続発した。主な原因は南方特有の高温多湿によるゴム被覆線の絶縁低下による回路ショート、変圧器・蓄電器充填絶縁物の流出による絶縁低下及びショートで、これらは酷暑地域に対する研究不足に起因するものであった。このため、電気研究部は直ちに修理チームを各要地に派遣すると共に、南方地域での使用に耐える部品の開発を進め、11号電探の動作は徐々に安定していった。
しかし、11号電探は性能に比べ大型・重量過大で前線への配備には不向きのため、生産は百数十基で打切られ、11K、12号、13号電探に取って代わられた。
写真出典: U.S. National Archives 80-G-11293
(注-1,3) 両実験日及び測定結果については「電波探信儀研究の初期の経過」大野茂(資料調査会資料)による。本資料は現国立東京工業高等専門学校教授である河村豊氏の学術博士論文「旧日本海軍の電波兵器開発過程を事例とした第2次大戦期日本の科学技術動員に関する分析」に「付属資料1」として収録されている。
(注-2) 「電波探信儀研究の初期の経過」には「出力10Kw」と記されているが、本機は11号電探の原型であり、よって尖頭出力は5Kwであったと推測される。
-(191 KB)この度、東京都足立区在住のアマチュア無線家JA1SGU、山崎真市郎殿より下記ラジオ・無線関連雑誌他を御寄贈頂きました。山崎殿には以前にも戦前の無線通信機器に関わる各種資料をご提供頂いており、度重なるご協力に心より感謝申し上げます。
電波科学
1948年9月~12月号
1949年5月~12月号
1950年1月~9月号
1951年1月~3月号
無線と実験
1940年10月号、1949年2月号
ラジオと音響
1949年7月号
米軍無線機材取扱説明書
TM11-872 FRR-3
TM11-856A R390A/UFR
TM11-687 AN/TRC-24
TM11-4871-1 TEST EQUIPMENT
当館は参考資料として戦前・戦中・戦後の無線雑誌、ラジオ雑誌他を収集しております。
つきましては、各位のご協力を是非宜しくお願い申し上げます。
-(48 KB)先般、オーストラリアの軍事史研究家Peter Flahavin氏がガダルカナル島で戦跡調査を行い、この際、旧日本海軍の対空警戒用レーダーである1号電波探信儀1型(11号)の遺構を発見しましたので、その概要について報告します。
遺構の発見場所は米軍がガダルカナル島上陸後、帝国海軍飛行場跡地に建設したヘンダーソン飛行場に隣接したRunga Ridge(南緯9°25’44.52”、東経160°01’57.12”)で、11号電探の上部構造物を設置した下部回転装置が、当時の原状を維持し残っていました。
遺構概観
掲示写真が発見された11号電探の遺構で、コンクリート基台に設置された円形の回転装置及び枠型の鉄製アングルで構成されている。本来この枠型アングルの上部には木造の小屋(電探室)が設置され、内部には電探装置が、前面には空中線が装置されていた。当初基礎の回転部には魚雷発射管の回転機構を流用したと伝えられているが、本回転部が流用物であるかは不明である。掲示写真の右隅には参考として当時米軍がガダルカナル島で鹵獲した11号電探が合成されているが、両機の基礎構造は相似していることが判る。回転部分が設置された基礎コンクリートに残る溝は電源及び通信線の引込部で、発電装置は電探装置の近くに設置された。
ガダルカナル島の11号電探
昭和17年(1942年)6月、大本営はソロモン地域の制空権を拡大するため、ガダルカナル島に飛行場を建設することを決定し、7月6日より海軍設営隊約2,500名により建設作業が始められた。当時大本営は太平洋方面に於ける連合軍の反攻は昭和18年(1943年)以降と考えており、このため、ガダルカナル島に配備された戦闘員は僅か600名程度であった。滑走路の第1期工事は8月5日に完了したが、8月7日午前6時に米軍が奇襲上陸を行い、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯を占領した。この際、海軍陸戦隊と設営隊は内陸部に退避したため、上陸は無抵抗で行われ、米軍は直ちに海軍飛行場跡地に航空基地(ヘンダーソン飛行場)の建設を開始した。
当時ガダルカナル島に設置されていた電探は海軍飛行場近郊に設置された11号電探2基と考えられ、これらは奇襲攻撃のため連合軍に無傷で鹵獲された。この11号電探は連合国側の技術陣により徹底した性能調査が行われ、以後連合国側では11号電探を「ガダルカナル型レーダー」と呼称した。
参考資料
下記URLにて、Peter Flahavin氏が数次に渡り行ったガダルカナル島での戦跡調査に関わる報告がなされている。
http://pacificwrecks.com/people/visitors/flahavin/
写真提供: Photo courtesy of Mr. Peter Flahavin
写真出典(11号電探): Australia War Memorial
-(81 KB)11号電探は海軍が大戦直前に開発した対空監視用電波探信儀で、海軍の電探1号機である。原型は使用周波数が100MHz、繰返周波数は1,000Hz、送信尖頭出力が5kwで、監視有効距離は編隊に対し大凡150kmであった。
11号電探はその後、繰返周波数が500Hzに、尖頭出力は30kwに改修され、探索範囲は250kmに拡大したが、本機は性能に比べ大型・重量過大で前線への配備には不向きであった。このため、戦況の悪化に伴い移動が容易な12号(1号電波探信儀2型)・13号電探(1号電波探信儀3型)に取って代わられ、生産は百数十基で打切られた。
装置概要
本電探は空中線装置、受信機、送信装置、同期制御機、波形表示用指示器及び装置の回転機構等により構成されている。電探機材は回転機構上部に設置された電探室に装置され、電源・通信線の取込みは回転部分の接触式電環装置を介し行われた。空中線は電探室前面に装置された枠型構造物に張られた金網上に配置され、電測員は電動機を制御し電探室を左右に回転させ標的の探索を行った。また、標的波の追尾、微調整は電動機と併せ装置された手動ハンドルにて行い、最大感度方式により標的の方位・距離の2緒元を測定した。
1号電波探信儀1型(改-1)緒元
用途: 対空警戒
配置場所: 沿岸、要地
有効距離: 編隊150Km、単機70Km
周波数: 100MHz帯
繰返周波数:1,000 Hz(最大探索距離150km)
パルス幅: 20μs
送信尖頭出力: 5Kw
送信空中線: 半波長ダイポール水平5列2段
受信空中線: 半波長ダイポール水平5列2段
送信機: 自励発振、電力増幅TR-593A x2(P.P.)
変調方式: パルス変調、変調管TB-308C
受信機: Wスーパーヘテロダイン方式、高周波増幅1段、(UN-954 P.P.)、第1検波(UN-954)、第1局部発振(UN-955)、第1中間周波2段(RE-3 x2)、第2検波(RE-3)、第2局部発振(Ut-6F7)、第2中間周波数3段(RE-3 x3)、第3検波(RE-3)、低周波増幅2段(RE-3 x2)
中間周波数: 第1中間周波数21.5MHz、第2中間周波数3.5MHz
帯域幅: ±250KHz
総合利得: 120db以上
信号表示: Aスコープ方式
測定方法: 最大感度方式
測距精度: 1-2Km
測角精度: 2-3°
電源: 3相200V交流電源
重量: 8,700kg
製造: 東芝・日本音響・住友
11号電探各部概説
「空中線装置」
11号の空中線は電探室前面に装置され、送受信用空中線素子は反射効果を考慮した金網上に絶縁材を介し配置された。送受信用空中線は同一構造の半波長ダイポール水平5列2段で、上段に受信用、下段に送信用素子が配置され、中央には送信電波が受信機に回り込むのを低減させる金網製遮蔽板が取り付けられ、給電は並行2線式である。
「送信装置」
本装置は送信機(発振部・電力増幅部)及び衝撃波(パルス)変調機で構成されている。11号電探は開発1号機のため各部の設計は慎重で、送信機は発振・電力増幅方式を採用している。発振はレッヘル線同調回路で構成される三極管(管種不明)プッシュプル(P.P.)の自励式で、発振周波数は100MHz帯である。電力増幅部は同じくレッヘル線同調回路を使用した三極管TR-593A P.P.構成で送信尖頭出力は5kw、出力状態を監視するためにDC762Aによる検波器を備えている。
変調機は同期制御機で発生させた繰返周波数1,000Hz、幅約30μsの同期用パルスを20μsに整形・増幅後、変調管TB-508Cに供給し、変調管は出力パルスで発振管のグリッドを制御する。
「受信機」
送信機と同様に受信機の設計にも配慮がなされ、このため、本機はWスーパーヘテロダイン方式であり、構成は高周波増幅1段、第1中間周波増幅2段、第2中間周波増幅3段、低周波増幅2段である。高周波増幅部はUN-954二本によるP.P.増幅方式、第1中間周波数は21.5MHz、第2局部発振回路は水晶制御方式、第2中間周波数は3.5MHzで帯域幅は±250KHz、総合利得は120db以上である。受信機前面パネルには第2局部発振回路の発振監視用電流計が装置されている。
なお、本式の受信機は11号の改良機材である12号(トレーラー型)、21号(艦艇用)、11K(簡易型)に踏襲された。
「同期制御機」
本装置は15KHzの正弦波発生回路、周波数1/15低減回路、送信用同期信号発生回路、時間軸掃引用鋸歯状波発生回路、目盛発生回路等により構成されている。
正弦波発生回路は水晶発振回路で作り出された15KHzを周波数1/5低減回路で3KHzに、次段の1/3低減回路で1,000Hzに変換し、基本信号として各部に供給する。
送信用同期信号回路は基本正弦波を基に飽和回路で幅30-40μSのパルスを発生させ、送信機変調部に供給する。本パルスは変調回路で20μSに整形され、発振管のグリッドバイアスを制御する。
鋸歯状波発生回路は基本正弦波1,000Hzに同期した鋸歯状波を発生し、掃引信号として指示器に供給する。
目盛発生回路は主発振器で発生した15KHzの正弦波をパルス化し、一目盛り10kmの距離測定用マーカー信号を発生させ指示器に供給する。
「指示器と測定」
波形監視用指示器は信号増幅回路、掃引回路より成る静電式のオシロスコープで、探索用受信波及び1目盛10kmの測距マーカー信号を画面表示する。
電測員は受信した反射波の振幅が最大となるように電探装置(空中線)を回転操作し、標的に正対する空中線の角度により方位を測定すると共に、距離測定用マーカーにより標的波を測距する。
本土初空襲と11号電探
1942年4月18日、米空母ホーネットより発艦したドーリットル中佐指揮のB-25爆撃機16機が本土(東京・名古屋・神戸)を初空襲した。この折り、勝浦に設置された11号電探1号機及び衣笠防空砲台に設置された2号機は十分な能力を持ちなが、東京・京浜地域に進入した敵機を探知することが出来なかった。
同日朝6時30分、黒潮部隊の監視艇「第23日東丸」は本土東方650浬(1,500km)で敵機動部隊を発見し「敵航空母艦3見ユ」他の情報を30分に渡り打電し、7時過ぎに撃沈された。この電文は海軍軍令部を通じ各部署に知らされたが、攻撃機が航続距離の短い通常の艦載機であると前提し、本土空襲は早くても19日早朝と予想された。両電探局の対応もこの判断を追従したもので、結局飛来予想時間の誤や、爆撃機の進入高度が低かったため、電探による敵機初探知の好機を逃してしまった。
概念図作成: 安原久悦殿
新年あけましておめでとうございます。
本年が皆様にとり幸多き年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
2010年 元旦
横浜旧軍無線通信資料館
土居 隆
-(29 KB)掲示は当館が所蔵する双発機用の60級模型エンジンで、戦前に鈴木金蔵と云う技巧家が製作されたと伝えられています。本機は幾人かの著名な蒐集家の手を経た後に、縁あり当館の所蔵するところとなりましたが、70年代後半に模型雑誌「シー&スカイ」で紹介された経緯も有り、入手時には既に、マニアの間では知られた存在のエンジンでした。
しかし、鈴木氏やエンジンの製作に関わる経緯についてはハッキリせず、現在当館はこれらについての調査を進めております。
つきましては、皆様の中に、鈴木金蔵氏と本エンジンに関わる情報をお持ちの方がおられましたら、ご教示の程をお願い申し上げます。
入手に関わる経緯
現在事務局員の関心は無線機器にあるが、生立ちは模型少年であり、当時はゴム動力機を数多く作り、UコンやRCに強い憧れをもって育った。このため、模型航空に対する思入れから、一時期、戦前・戦中の国産模型エンジンや、初期のRCプロポ等の収集を行っていた。この折、かつて日本有数のRC飛行機の競技者であり、後に我が国のRCヘリコプターの礎を築いたカルト産業社長の故沖宏之氏より関連エンジン各種を譲り受けたが、これらの中に写真の60級エンジン2基が含まれていた。沖氏はこのエンジンを有名な蒐集家より入手されたが、鈴木氏の経歴や製作目的等については引継がなされておらず、作者名以外の来歴は既に失われていた。
また、沖氏より引継いだエンジンの中には戦前・戦中に模型飛行機の権威として活躍した故三島通隆氏の有名なRC機、MM-13に搭載されていたOK-TWINも含まれていた。 沖氏は三島氏を人生の師と仰ぎ尊敬し、この関係でMM-13は後に沖氏に贈られた経緯があった。 その後沖氏のご厚意で、三島氏のRC機に関わる写真アルバムも入手する事が出来、これらは現在、当館の大切な収蔵物となっている。
鈴木金蔵氏関連資料
戦前・戦中に活躍した作家・脚本家で「燃ゆる大空」の著者であり、また、三島通隆氏と共に模型航空界の権威であった故北村小松氏が、1942年(昭和17年)9月発行の「模型航空」(9月号)に「ガソリン・エンジン機物語」を寄稿しているが、この中に鈴木氏に関わる記述がある。現在知る限り、氏に関わる記録は本編のみであり、参考として該当部分を以下に抜粋した。
「・・・中岡氏は昭和10年10月5日、代々木において当時の我が陸軍の新鋭機、91式戦闘機のスケールモデルに、米国製ブラウン・エンジンを装備して飛行させた。これが恐らく我が国の成功したエンジン機のさきがけとなったと思う。・・・・ところが、これと同時に日本にも、優秀な小型エンジンが出来上がっていたことを、われわれは忘れてはならない。それは鈴木金蔵氏の制作したエンジンのことである。鈴木氏は、模型でない、その道の専門の技術家ではあるが、氏はエンジンからプラグまで手製で作り上げ、模型飛行機を飛ばすことに成功しているのである。もっとも、話によると、コイルはフォード自動車用のものを用いたということであるが、早くも鈴木氏は、そのエンジンの点火栓製作法すら「航空時代」に公開しているのである。昭和12年1月17日、鈴木氏は市川国府東練兵場でその愛機SK1型を飛ばし、実に35分フラットという滞空記録を作った。・・・・」
上記によると鈴木金蔵氏は航空実機に関係した技術者であったとも推測され、また、「シー&スカイ」(発行年月不明)に掲載された本エンジンの紹介記事「男のロマンを呼ぶ!珠玉のモデルエンジン、シリーズ14、Tow Brightest Stars」にもそれを裏付ける様な以下の記述がある。
「右回転と左回転で対となっている双発専用エンジン。スパークイグニッション形式の60クラス。昭和12年に三菱重工業で零戦を作っていた技術屋さんが、ひまをみて1組だけ手造りしたもの。・・・・」
しかし、鈴木氏は「東京瓦斯電(注)」に関係した人物であったとの情報も有り、氏が本当に三菱重工業航空機生産部門の技術者であったのかは現在のところハッキリしない。
なお、先般日野自動車の技術資料館「日野オートプラザ」に鈴木氏に関わる問い合わせを行ったところ、以下の丁重な返信を頂いた。
「1925年(大正14年)5月〜1934年(昭和9年)および1937年に東京自動車工業移行時の全社員名簿を確認しましたが、鈴木金蔵様のお名前はありませんでした。」
写真補足
鈴木金蔵氏が製作したとされる60級エンジン二基。エンジン本体、プラグ、プロペラ等総てが手作りである。エンジンヘッドは鉄製、シリンダーフィンは削出しでキャブレターは排気管と一体の構造となっている。大型の3翅プロペラの材質はジュラルミン、二基のエンジンは回転方向が異なる為、1枚のプロペラは逆ピッチとなっている。
参考資料
下記URLに北村小松氏が製作した有名なUコン機「ブタ号」掲示されている。本機はブタ(機体)に包丁が二本(主翼・尾翼)刺さった構図となっており、誠に滑稽である。
http://www.plib.net.pref.aomori.jp/top/museum/meihin_21.html
(注) 日野自動車の前身である東京瓦斯電機工業は、1910年(明治43年)にガス関連器具の製造販売を行う東京瓦斯工業として創設され、1913年(大正2年)に電気器具の製造を兼業するため東京瓦斯電機工業と改称し、1917年(大正6年)には自動車製造に進出する。1927年(昭和2年)になると航空機用エンジンの設計を始め、「神風」、「天風」を開発する一方、1934年(昭和9年)には東京大学航空研究所が設計した航研機の製作を担当するなど航空機への関与を深め、1939年(昭和14年)に航空機部門は日立航空機として独立した。戦後、1949年(昭和24年)に日立航空機は東京瓦斯電機工業に改称し、1953年に富士自動車と合併し、富士自動車となった。
自動車部は1937年(昭和12年)に瓦斯電、石川島自動車製作所、ダット自動車製造の三社合併が行われ東京自動車工業となった。東京自動車工業は1941年(昭和16年)にディーゼル自動車工業となり、戦後はいすゞ自動車と改称された。1942年(昭和17年)には瓦斯電出身者が東京自動車工業より復帰して日野製造所を設立し、後に日野重工業として分社し、戦後になり日野自動車と改称した。